その着物が自然にあるき出したのであった。
「あれ、あれ、着物が……」と、往来を通る者が見つけて騒ぎ出したので、近所の人達も表へ駈け出して仰向くと、赤い着物の一枚はさながら魂でも宿ったように物干竿を離れて、ゆう闇の中をふらふらと迷ってゆくのであった。風に吹かれたのではない、隣りの屋根から屋根へと伝わって、足があるように歩いて行くのであった。人々もおどろいて声をあげて騒いだ。ある者は石を拾って投げ付けた。着物の方でもこれに驚かされたらしく、紅い裳《すそ》をひいて飛ぶように走り出したと思ううちに、質屋の高い土蔵のかげに消えてしまった。印判屋のおかみさんは蒼くなってふるえた。
これがまた町内を騒がした後に、その着物は質屋の裏庭の高い枝にかかっているのを発見した。そこで論議は二つに分かれた。お北がおびやかされた事件からかんがえると、それは眼にみえない妖怪の仕業であるらしくも思われたが、印判屋の干物をさらって行った事件から想像すると、それは人間の仕業らしくも思われた。勿論、後の場合にも誰もその正体を見とどけた者はなかったが、何者かがその着物のかげに隠れているのではないかという判断が付かないでもな
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