いに冬空に近づいて、火というものに対する恐れが強くなって来たのに付け込んで、何者かが人を嚇すつもりでこんな悪戯をするに相違ないと思った。しかもそのいたずら者が発見されないので、諸人の心は落ち着かなかった。たとい人間の悪戯にしても、こんな事が毎晩つづくのは、やがてほんとうの大火を喚び起す前兆ではないかとも危ぶまれた。気の早いものは荷ごしらえをして、いつでも立ち退くことができるように用心しているものもあった。老人を遠方の親類にあずけるものもあった。藁一本を炙《く》べた煙りもこの町内の人々の眼に鋭く泌みて、かれの尖った神経は若い蘆の葉のようにふるえ勝ちであった。もうこうなっては、自身番や番太郎の耄碌《もうろく》おやじを頼りにしていることは出来なくなったので、仕事師は勿論、町内の若いものも殆ど総出で、毎晩この火の見梯子を中心にして一町内を警戒することになった。
 いたずら者もこの物々しい警戒に恐れたらしく、それから五、六日は半鐘の音を立てなかった。十月のお会式《えしき》の頃から寒い雨がびしょびしょ降りつづいた。この頃は半鐘の音がしばらく絶えたのと、雨が毎日降るのとに油断して、町内の警戒もおのず
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