は少し差し合いがありますから、町内の名は申されませんが、やっぱり下町《したまち》のことで、いつかお話をしたお化け師匠の家《うち》のあんまり遠くないところだと思ってください。そこに変なことが出来《しゅったい》したんで、一時は大騒ぎをしましたよ」
神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷《あわせ》でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太《ふでぶと》にかいた行燈の灯がぼんやりと点《とも》されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどき鳴った。
「そら、火事だ」
あわてて駈け出した人々は、どこにも煙りの見えないのに呆れた。そういうことがひと晩のうちに一度二度、時によると三、四度もつづいて、一つばんもある。二つばんもある。近火の摺りばんを滅多打ちにじゃんじゃんと打ち立てることもある。町内ばかりでなく、その半鐘の音がそれからそれへと警報を伝えて、隣り町《ちょう》でもあわてて半鐘を撞く。火消しはあてもなしに駈けあつまる。そ
前へ
次へ
全35ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング