れたのか、あるいは自分で打ったのか、彼は左の額に石で打ったようなかすり傷をうけていた。
 調べてみると、その晩も権太郎は外出しないという証拠が確かに挙がった。こうして、悪戯小僧にかかる疑いは漸次《しだい》に薄れて来たが、それと同時にこの不思議に対する疑いはいよいよ濃くなった。臆病の伝七の云い立てによると、どうも河童《かっぱ》らしいというのであったが、町なかに河童が出る筈はないと云って誰もそれを信用しなかった。
「どうも人間らしい」
 この頃は方々の家で食い物を盗まれた。ことにお咲をおどかした遺り口といい、佐兵衛を襲った手段といい、妖怪がだんだんに人間味を帯びて来たことは誰にもうなずかれた。権太郎以外のいたずら者がこの町内へ入り込んで来るに相違ないというので、又もや町内総出で毎晩の警戒を厳重にすることになった。

     三

 その以来、半鐘はちっとも鳴らなくなった。半鐘はなんにも知らないような顔をして、冬の空に高くかかっていた。
 お北の家へはその後に人が越して来た。しかし一と晩で早々に立ち退いてしまった。夜なかに不意に行燈が消えて、そのおかみさんが何者にか頭髷《たぶさ》をつかんで、蒲団の外へぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]引き摺り出されたというのであった。しかも別に紛失物はなかった。何かこの空家に潜《ひそ》んでいるのではないかと、家主立ち合いで家探しをしたが、その正体は遂に見とどけられなかった。
「やっぱり化け物かしら」
 こんな噂がまた起った。町内の人たちも、化け物か人間か得体《えたい》の解らないこの禍いを払う方法にはあぐね果てた。空で半鐘が鳴らない代りに、地の上ではやはり不思議の出来事が止まなかった。
 その次に人身御供《ひとみごくう》にあがったのは、番太郎の女房のお倉であった。
「番太郎……お若い方は御存じありますまいね」と、半七老人は説明してくれた。「むかしの番太郎というのは、まあ早く云えば町内の雑用を足す人間で、毎日の役目は拍子木を打って時を知らせてあるくんです。番太郎の家は大抵自身番のとなりにあって、店では草鞋でも蝋燭でも炭団《たどん》でも渋団扇《しぶうちわ》でもなんでも売っている。つまり一種の荒物屋ですね。そのほかに夏は金魚を売る、冬は焼芋を売る。八幡太郎と番太郎の違いだなどと冗談にも云われるくらいで、あんまり幅の利いた商売じゃありませんが、そんな風に何でもするので、なかなか金を溜めている奴が多うござんしたよ」
 その番太郎のとなりに小さい筆屋があって、その女房が暮れ六ツ(午後六時)過ぎに急に産気づいた。夫婦掛け合いの家で、亭主は唯うろうろするばかりであるので、お倉はすぐに取り上げ婆さんを呼びに行った。そんな使いをたのまれて幾らかの使い賃を貰うのが、番太郎の女房の役得《やくとく》であった。お倉は気丈な女で、殊にまだ宵の口といい、この頃は町内の警戒も厳重なので、かれは平気で下駄を突っかけて駈け出した。取り上げ婆さんの所は四、五町もはなれているので、お倉はむやみに急いで行った。今夜も霜陰りという空であったが、両側の灯はうす明るい影を狭い町に投げていた。すぐに来てくれるように取り上げ婆さんに頼むと、婆さんは承知して一緒に来た。
 婆さんはもう六十幾つというので、足がのろかった。頭巾《ずきん》に顔をつつんでとぼとぼあるいて来た。お倉はじれったいのを我慢して、それに附き合って歩いていると、婆さんは何か詰まらないことをくどくどと話しかけた。気の急《せ》いているお倉は上《うわ》の空で返事をしながら、婆さんを引っ張るようにして急いで帰った。町内の灯はもう目の前に見えた。
 隣り町との町境に土蔵が二つ列んでいるところがあって、それに続いて材木屋の大きい材木置場があった。前後の灯のかげはここまで届かないので、十間あまりの間には冬の夜の闇が漆《うるし》のように横たわっていた。自分の町内にはいるお倉は、どうしてもこの闇を突っ切って行かなければならなかった。この間の晩、煙草屋の娘が災難に逢ったのも此の辺だろうと思いながら、彼女は婆さんを急《せ》き立てて歩いてくると、積んである材木のかげから犬のようなものが這い出した。
「おや、なんだろう」
 よぼよぼしている婆さんを引っ張っているので、お倉はすぐに逃げ出すわけにも行かなかったが、気丈な彼女は闇の底をじっと透かしてその正体を見定めようとする間もなく、怪しい物は背をぬすむように身を伏せて来て、いきなりお倉の腰に取り付いた。
「何をしやあがる」
 一度は手ひどく突き退けたが、二度目には帯を取られた。ゆるんだ帯がずるずると解けてゆくので、お倉は少しあわてた。彼女は大きい声で人を呼んだ。婆さんも皺枯れ声をあげて救いを叫んだ。その声を聞き付けて、町内の者が駈けてくる足音に、怪しい物の方でも慌てた
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