らしく、かれはお倉の右の頬を引っ掻いて逃げた。お倉は二、三間追っ掛けて行ったが、足の早い彼はどこへか姿を隠してしまった。
「化け物なんて嘘です。たしかに人間ですよ。暗くって判りませんでしたけれど、何でも十六七ぐらいの男でした」と、お倉は云った。気丈な彼女の証言によって、化け物の正体はいよいよ人間ときめられたが、さてそれが何者であるかは判らなかった。
併し人間ときまれば又それを取り押える方法もあると、町役人どもは自身番に集まって、その悪戯者を狩り出す相談をしていると、ここへ又新しい不思議な報告が来た。それはお倉が曲者に出会ってから半時ほどの後であった。さきに干物を攫《さら》われた印判屋の台所の上で、なにかごとごとという音がきこえたので、おおかた猫か鼠だろうと思った女房は、台所へ出てしっしっと追ったが、屋根のうえの物音はまだ止まなかった。このあいだの一件に驚かされている彼女はぞっ[#「ぞっ」に傍点]としたが、それも怖い物見たさの好奇心から、引窓の引き綱を解いてそろそろと明けた。その途端になにを見たか、彼女はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と云って奥へころげ込んだ。
彼女がふるえながら話すところに因ると、かれが屋根の上をそっと覗こうとする時に、引窓の穴から二つの大きい光った眼が出た。彼女はそれ以上を見とどける勇気も無しに奥へ逃げ込んでしまったのであった。
この報告を受け取って、人々はまた迷った。
「番太郎の女房の云うことはあてにならない。どうも人間ではないようだ」と、今夜の評議も結局不得要領に終った。
こうして不安と混雑とを続けているうちに、半七は一方の用が片付いた。きょうはいよいよ半鐘の詮議に取りかかろうと思っていたが、午前《ひるまえ》は客が来たので出る事ができなかった。彼は八ツ(午後二時)頃に神田の家を出て、呪いの半鐘に見おろされている薄暗い町へ踏み込んだ。
「気のせいか、陰気な町だな」と、半七は思った。
風はないが、底寒い日であった。薄い日の光りがどんよりと洩れたかと思うと、又すぐに吹き消すように消えてしまった。昼でもあまり暗いので、鴉も途惑《とまど》いをしたらしい、ねぐらを急ぐように啼き連れて通った。半七はふところ手をして、まず町内の鍛冶屋のまえに立つと、そこの店からは大小の蜜柑がばらばら飛び出すのを、小児《こども》たちが群がって拾っていた。きょうは十一月八日の鞴祭《ふいごまつ》りであることを半七はすぐに覚った。小児の群れのうしろから覗いて見ると、親方が蜜柑を往来へ威勢よく撒《ま》いていた。職人も権太郎も笊《ざる》に入れた蜜柑を忙がしそうに店へ運んでいた。
半七は自身番へ寄って、家主を相手に世間話をしながら、鍛冶屋の蜜柑撒きの済むのを待っていた。半鐘一件の片付かない間は、家主はかならず交代で自身番へ詰めていることになったので、早く埒が明いてくれなければ困るなどと、家主は手前勝手な愚痴を云っていた。
「御心配にゃあ及びません。近いうちに何とか眼鼻をつけてお目にかけます」と、半七は慰めるように云った。
「どうか宜しく願います。だんだん寒空には向って来ますし、火事早い江戸で半鐘騒ぎは気が気でありませんよ」と、家主はいかにも弱り抜いているらしかった。
「お察し申します。なに、もうちっとの御辛抱ですよ。あの鍛冶屋の鞴祭りが済んだらば、小僧をちょいと此処へ呼んで下さいませんか」
「やっぱりあの小僧がおかしゅうございますか」
「と云う訳でもありませんが、少し訊きたいことがありますから、あんまり嚇《おど》かさないでそっと連れて来てください」
往来へころがる蜜柑の数もだんだん減って、子供たちの影も鍛冶屋の店さきを散ってしまうと、家主は権太郎を呼びに行った。半七は煙草をのみながら表を眺めていると、壁色の空はしだいに厚くなって来て、魔のような黒い雲がこの町の上を忙がしそうに通った。海鼠《なまこ》売りの声が寒そうにきこえた。
「これは神田の半七親分だ。おとなしく御挨拶をしろ」と、家主は権太郎を引っ張って来て半七のまえに坐らせた。きょうは鞴祭りのせいか、権太郎はいつものまっ黒な仕事着を小ざっぱりした双子《ふたこ》に着かえて、顔もあまりくすぶらしていなかった。
「おめえが権太郎というのか。親方は今なにをしている」と、半七は訊いた。
「これからお祝いの酒が始まるんだ」
「それじゃあ差当りお前に用もあるめえ。きょうは蜜柑まきで、お前は蜜柑を貰ったか」
「十個《とお》ばかり貰った」と、権太郎は袂を重そうにぶらぶら振ってみせた。
「そうか。なにしろ、ここじゃ話ができねえ。裏の空地《あきち》まで来てくれ」
表へ出ると、霰《あられ》がばらばら降って来た。
「あ、降って来た」と、半七は暗い空を見た。「まあ、大したこともあるめえ。さあ、すぐに来い」
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