やかされたのは、町内の煙草屋のお咲という今年十七の娘であった。お咲は本所の親類へ行って、六ッ半(午後七時)頃に帰って来ると、冬の日はとうに暮れてしまって、北風が軽い砂を転がして吹いてゆくのが夜目にも白く見えた。このごろ不思議の多い自分の町内へ近づくにしたがって、若い娘の胸は動悸を打った。もっと早く帰ればよかったと悔みながら、お咲は俯向いて両袖をしっかりと抱きあわせて、小刻みに足を早めて歩いて来ると、うしろから同じく刻み足に尾《つ》けて来るような軽いひびきが微かにきこえた。お咲は水を浴びたようにぞっ[#「ぞっ」に傍点]としたが、とても振り返って見る勇気はないので、すくみ勝ちの足を急がせて、ようよう自分の町内の角を曲がったかと思うと、あたかも白い砂が渦をまいてお咲の足もとから胸のあたりまで舞いあがって来たので、彼女は両袖で思わず顔をおさえたその途端に、うしろから尾けて来たらしい怪しいものは、旋風《つむじかぜ》のように駈け寄って来てお咲を突き飛ばした。
娘の悲鳴を聞きつけて、近所の者が駈け付けてみると、お咲は気を失って倒れていた。彼女の島田の髷はむごたらしくかきむしられていた。膝がしらを少し摺り剥いただけで、ほかに大した怪我もなかったが、あまりの驚愕《おどろき》にお咲は蘇生の後もぼんやりしていた。その晩から熱が出て、三日ばかり床に就いた。
妖怪か、人間かという議論がまた起った。鍛冶屋の権太郎が質屋の隣りの垣根へのぼったのを目撃したのはこのお咲で、それが彼女の口から世間へ洩れたのであるから、自身番でひどい目に逢わされた悪戯小僧は、その復讐のためにお咲のあとを尾けたのではないかという疑いも起ったが、それはすぐに打ち消された。権太郎はその時刻にたしかに自分の店にいたと親方が証明した。ほかにも権太郎が夜なべをしているのを見たという者もあった。いくら悪戯者でも身体が二つない以上、今度の事件を権太郎になすり付けることは出来なかった。その不思議もとうとう要領を得ずに終った。
「夜はもう外へ出るんじゃないよ」
日が暮れると、女や子供はいよいよ表へ出ないことになった。すると、今度は意外の禍いが男の上にも襲いかかって来た。第二の打撃をうけたのは自身番の親方佐兵衛であった。佐兵衛は先ず冬という敵に襲われて、先月の末頃から持病の疝気に悩まされていたが、なにぶんにも此の頃は町内が騒がしくて、毎日のように町《ちょう》役人の寄合いがあるので、彼は出来るだけ我慢して起きていた。それがどうしても堪えられなくなって、昼から温石《おんじゃく》などで凌《しの》いでいたが、日が暮れると夜の寒さが腹に泌み透って来た。かれは痙攣《さしこみ》の来る下腹をかかえて炉のそばに唸っていた。
「医者様でも呼んで来ようか」
手下の伝七と長作とが見兼ねて云った。
「まあ、もう少し我慢しようよ」
自身番のおやじや番太郎には金作りが多かった。医者の薬礼を恐れる彼は、なるべく買い薬で間にあわせて置きたかったのであるが、夜のふけるに連れて疼痛《いたみ》はいよいよ強くなって、彼はもう慾にも得《とく》にも我慢が出来なくなった。それでも医者を呼ぶのを嫌って、こっちから医者の家へ行こうと云った。
「それじゃあ私が送って行こう」
伝七がついて行くことになった。強い痙攣で、満足には歩けそうもない佐兵衛を介抱しながら、ともかくも表へ出ると、町には夜の霜が一面に降りていた。伝七は病人の手をひいて、隣り町《ちょう》の医者の門をくぐった。医者は薬をくれて、あたたかにして寝ていろと注意した。礼を云って医者の家を出たのは、もう四ツ(午後十時)に近い頃であった。
「御町内はこのごろ物騒だというから、途中もよく気をつけてな」と、帰りぎわに医者が云った。
その親切な注意が二人の胸にはまた一入《ひとしお》の寒さを呼び出した。帰り途にも佐兵衛は手を引かれて歩いた。
「木戸の締まらないうちに早く行こう。番太にあけて貰うのも面倒だから」
風もない、月もない、霜の声でもきこえてきそうな静かな夜であった。町内にももう灯のかげは疎《まば》らであった。佐兵衛は下腹をおさえながら屈《こご》み勝ちにあるいていた。二人は町内にはいって二、三軒も通り過ぎたかと思うと、質屋の天水桶のかげから何かまっ黒な影があらわれた。それが何であるかを認める間もなしに、その黒い物は地を這うように走って来て、いきなり佐兵衛の足をすくった。屈んでいた彼はすぐに滑って倒れた。ふだんからおびえていた伝七はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と云って逃げ出した。
この臆病者の報告を聴いて、長作は棒を持ってこわごわ出て来た。伝七も得物《えもの》をとって再び引っ返して来たが、もうその時には黒い物の影も見えなかった。佐兵衛は転んだはずみに膝を痛めた。まだそのほかに、相手にぶた
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