いに冬空に近づいて、火というものに対する恐れが強くなって来たのに付け込んで、何者かが人を嚇すつもりでこんな悪戯をするに相違ないと思った。しかもそのいたずら者が発見されないので、諸人の心は落ち着かなかった。たとい人間の悪戯にしても、こんな事が毎晩つづくのは、やがてほんとうの大火を喚び起す前兆ではないかとも危ぶまれた。気の早いものは荷ごしらえをして、いつでも立ち退くことができるように用心しているものもあった。老人を遠方の親類にあずけるものもあった。藁一本を炙《く》べた煙りもこの町内の人々の眼に鋭く泌みて、かれの尖った神経は若い蘆の葉のようにふるえ勝ちであった。もうこうなっては、自身番や番太郎の耄碌《もうろく》おやじを頼りにしていることは出来なくなったので、仕事師は勿論、町内の若いものも殆ど総出で、毎晩この火の見梯子を中心にして一町内を警戒することになった。
いたずら者もこの物々しい警戒に恐れたらしく、それから五、六日は半鐘の音を立てなかった。十月のお会式《えしき》の頃から寒い雨がびしょびしょ降りつづいた。この頃は半鐘の音がしばらく絶えたのと、雨が毎日降るのとに油断して、町内の警戒もおのずとゆるむと、あたかもそれを待っていたように、不意の禍がひとりの女の頭の上に落ちかかって来た。
女は町内の路地のなかに住んでいるお北という若い女で、以前は柳橋で芸奴を勤めていたのを、日本橋辺のある大店《おおだな》の番頭に引かされて、今ではここに小ぢんまりした妾宅を構えているのであった。その日は昼間から旦那が来て五ツ頃(午後八時)に帰ったので、お北はそれから近所の銭湯へ行った。女の長湯をすまして帰って来たのは五ツ半を廻った頃で、往来のすくない雨の夜に大抵の店では大戸を半分ぐらい閉めていた。雨には少し風もまじっていた。
路地へはいろうとすると、お北の傘が俄かに石のように重くなった。不思議に思って傘を少し傾けようとすると、その途端に傘がべりべりと裂けた。眼に見えない手がどこからかぬっ[#「ぬっ」に傍点]と現われて、お北の三つ輪の髷《まげ》をぐい[#「ぐい」に傍点]と引っ掴んだので、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と云ってよろける拍子に、彼女は溝板《どぶいた》を踏みはずして倒れた。その声を聞いて近所の人達が駈け付けたときには、お北はもう正気を失っていた。跳ねあがった溝板で脾腹《ひばら》を強く突か
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