れたのであった。
家へかつぎ込まれて、介抱を受けて、お北はようよう息をふき返した。当時のことは半分夢中でよくは記憶していなかったが、ともかくも傘が不思議に重くなって、その傘がまた自然に裂けて、何者にか頭を引っ掴まれたことだけは人に話した。町内の騒ぎはまた大きくなった。
「町内には化け物が出る」
こんな噂がひろがって、女子供は日が暮れると表へ出ないようになった。ふだん聞き慣れている上野や浅草の入相《いりあい》の鐘も、魔の通る合図であるかのように女子供をおびえさせた。その最中にまた一つの事件が起った。
それはお北が眼に見えない妖怪におびやかされてから五日ほど後のことであった。初冬の長霖《ながじけ》がようやく晴れたので、どこの井戸端でもおかみさん達が洗濯物に忙がしかった。どこの物干にも白い袖や紅い裳《すそ》のかげが、青い冬空の下にひらひらと揺れていた。それも日の暮れる頃には次第に数が減って、印判屋《はんこや》の物干にかかっている小児《こども》のあかい着物二枚だけが、正月のゆうぐれに落ち残った凧のように両袖を寒そうに拡げていた。ここのおかみさんが夜干《よぼし》にして置くつもりらしかった。その着物が自然にあるき出したのであった。
「あれ、あれ、着物が……」と、往来を通る者が見つけて騒ぎ出したので、近所の人達も表へ駈け出して仰向くと、赤い着物の一枚はさながら魂でも宿ったように物干竿を離れて、ゆう闇の中をふらふらと迷ってゆくのであった。風に吹かれたのではない、隣りの屋根から屋根へと伝わって、足があるように歩いて行くのであった。人々もおどろいて声をあげて騒いだ。ある者は石を拾って投げ付けた。着物の方でもこれに驚かされたらしく、紅い裳《すそ》をひいて飛ぶように走り出したと思ううちに、質屋の高い土蔵のかげに消えてしまった。印判屋のおかみさんは蒼くなってふるえた。
これがまた町内を騒がした後に、その着物は質屋の裏庭の高い枝にかかっているのを発見した。そこで論議は二つに分かれた。お北がおびやかされた事件からかんがえると、それは眼にみえない妖怪の仕業であるらしくも思われたが、印判屋の干物をさらって行った事件から想像すると、それは人間の仕業らしくも思われた。勿論、後の場合にも誰もその正体を見とどけた者はなかったが、何者かがその着物のかげに隠れているのではないかという判断が付かないでもな
前へ
次へ
全18ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング