。頼りにしていた娘に別れて何分寂しくてならないから、お前さんを見込んで頼む、どうぞ養子になってくれと云った。
 思いも付かない話でもあり、且は自分は惣領の跡取りであるので、弥三郎は無論にことわって帰った。しかし師匠の方でなかなか諦めないらしく、その後も執念ぶかく付きまとって来て、何かと名をつけて無理に彼を呼び出そうとした。一度は途中でつかまって、否応なしに湯島辺のある茶屋へ引っ張って行かれた。下戸の弥三郎は酒を強《し》いられた。歌女寿もだんだんに酔いがまわって来て、婿になれというのか亭主になれというのか、訳の判らないようなことを媚《なまめ》かしい素振りで云い出したので、気の小さい弥三郎は顫えるほどに驚いて、一生懸命に振り切って逃げて帰った。
「その茶屋へ引っ張られて行ったのは何日《いつ》頃だね」と、半七は笑いながら訊いた。
「ことしの正月です。それから三月にも浅草で出っくわして、無理にどっかへ引っ張られようとしたのを、それもようよう振り切って逃げました。それから五月の末でしたろう。日が暮れてから近所の湯へ行くと、その帰りにわたくしが男湯から出ると、師匠もちょうど女湯から出る、そこでばっ
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