しゃい」と、挨拶する声につづいて、二階に合図をするような咳払いの声がきこえた。二人は顔をみあわせた。
「野郎。来たかな」と、熊蔵があわてて起って下をのぞく途端に、背の高い一人の若い武士が刀を持って階子を足早にあがって来た。
「おあがり下さいまし。毎日お寒いことでございます」と熊蔵はわざと笑顔を粧《つく》って挨拶した。
「どうぞこちらへ。けさは女が休んだものですから、二階も散らかって居ります」
「女は休んだか」と、武士は刀掛けに大小をかけながらちょっと首をひねった。そうして、
「お吉は病気かな」と、仔細ありげに訊いた。
「さあ、まだ何とも云ってまいりませんが、流行感冒《はやりかぜ》でも引いたんでございましょう」
武士は黙ってうなずいていたが、やがて着物をぬいで階子を降りて行った。
「あれが連れの奴か」と、半七が小声で訊くと、熊蔵は眼でうなずいた。
「親分、どうしましょう」
「まさか、いきなりにふん縛るわけにも行くめえ。まあ、ここへ上がって来たら、てめえがなんとか巧く云って連れの武士《さむれえ》のことを訊いてみろ。その返事次第でまた工夫もあるだろう。なにしろ相手が武士だ。無暗に振りまわされるとあぶねえから、その大小はどこへか隠してしまえ」
「そうですね。誰か加勢に呼びましょうか」
「それにも及ぶめえ。多寡が一人だ。何とかなるだろう」と、半七はふところの十手を探った。
二人は息を嚥《の》んで待ち構えた。
四
「いや、馬鹿なお話ですね」と、半七老人は笑いながらわたしに話した。
「今考えると実にばかばかしい話で、それからその武士のあがって来るのを待っていて、熊蔵がそれとなくいろいろのことを訊くと、どうもその返事が曖昧《あいまい》で、なにか物を隠しているらしく見えるんです。わたくしも傍から口を出してだんだん探ってみたんですが、どうも腑に落ちないことが多いんです。こっちももう焦《じ》れて来たので、とうとう十手を出しましたよ。いや、大しくじりで……。はははは。なんでも焦《あせ》っちゃいけませんね。そうすると、その武士も切羽詰まったとみえて、ようよう本音を吐いたんですが、やっぱりお吉の云った通り、その二人の武士は仇討でしたよ」
「かたき討……」と、わたしは思わず訊き返すと、半七老人はにやにや笑っていた。
「まったく仇討なんですよ。それが又おかしい。まあお聴きなさい」
半七に十手を突き付けられた武士は梶井源五郎といって、西国の某藩士であった。去年の春から江戸へ勤番に出て来て、麻布の屋敷内に住んでいたが、道楽者のかれは朋輩の高島弥七と特別に仲好くして、吉原や品川を遊びまわっていた。もうだんだんに江戸に馴れて来た彼等は、去年の十一月のはじめに同じ家中の神崎郷助と茂原市郎右衛門のふたりを誘い出して、品川のある遊女屋へ遊びに行った。その席上で神崎と茂原とが酒の上から口論をはじめたのを、梶井と高島とがともかくも仲裁してその場は無事に納まったが、神崎はやはり面白くないと見えて、すぐに帰ると云い出した。もう屋敷の門限も過ぎているのであるから、いっそ今夜は泊って帰れと、仲裁者の二人がしきりに引留めたが、どうしても帰ると強情を張った。
彼ひとりを先に帰すわけにも行かないので、結局四人が連れ立って出ることになった。高輪《たかなわ》の海岸にさしかかったのは夜の五ツ(午後八時)を過ぎた頃で、暗い海に漁船の篝火《かがりび》が二つ三つ寂しく浮かんでいた。酔いを醒ます北風が霜を吹いて、宿《しゅく》へ急ぐ荷馬の鈴の音が夜の寒さを揺り出すようにも聞えた。さっきから黙ってあるいていた神崎は、このとき一と足退がってだしぬけに刀を抜いたらしい。なにか暗いなかに光ったかと思うと、茂原はあっ[#「あっ」に傍点]と云って倒れた。神崎はすぐに刀を引いて、一散走りに芝の方角へばたばたと駈けて行ってしまった。梶井と高島は呆気《あっけ》に取られて、しばらく突っ立っていた。茂原は右の肩からうしろ袈裟に斬り下げられて、ただ一刀で息が絶えていた。もうどうすることも出来ないので、二人は茂原の死骸を辻駕籠にのせ、夜ふけに麻布の屋敷までそっと運んで行った。悪場所で酔狂の口論、それが原因で朋輩を殺《あや》めるなどは重々の不埓とあって、屋敷でもすぐに神崎のゆくえを探索させたが、五日十日を過ぎても何の手がかりもなかった。茂原には市次郎という弟があって、それがすぐに兄の仇討を屋敷へ願い出た。
かたき討は許可された。しかし表向きに暇をやることはならぬ、兄の遺骨を郷里へ送る途中で仏寺に参詣し、または親戚のもとへ立ち寄ることは苦しからずというのであった。つまり仏寺に参詣とか親戚を訪問とかいう名義で、仇のゆくえを尋ねあるくことを許されたのである。弟はありがたき儀とお礼を申し上げて、兄の遺骨をたずさえて江
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