戸を出発した。
関係者の梶井と高島とは、遊里に立入って身持よろしからずというのでお叱りを受けた。殊に当夜刃傷のみぎり、相手の神崎を取り逃がしたるは不用意の致し方とあって、厳しいお咎めを受けた。しかもその過怠として仇討の助太刀を申し付けられた。但し他国へ踏み出すことはならぬ。江戸四里四方を毎日たずねあるいて、百日のあいだに仇の在所《ありか》をさがし出せというのであった。
仇の神崎が果たして江戸に隠れているかどうかは疑問であったが、この厳命を受けた彼等は毎日|暁《あけ》六ツから屋敷を出て夕六ツまで江戸中を探し歩かなければならなかった。はじめの十日ほど正直に根好く江戸中を歩きまわっていたが、この難儀な役目には彼等もだんだんに疲れて来た。しまいには二人が相談して、毎朝いつもの時刻に屋敷の門を出ながら、そこらの水茶屋や講釈所や湯屋の二階にはいり込んで、一日をそこに遊び暮すという横着なことを考え出すようになった。きのうは浅草の盛り場へ行ったとか、きょうは本郷の屋敷町をまわったとか、屋敷の方へは好い加減の報告をして、彼等はどこかで毎日寝転んで遊んでいた。仇のありかは勿論知れよう筈はなかった。
毎日遊び歩いているのであるから、彼等もなるたけ銭《ぜに》の要らない場所を選ばなければならなかった。彼等は結局この湯屋の二階を根城《ねじろ》として、申し訳ばかりに時々そこらを出て歩いていた。そのうちに一方の高島の方は二階番のお吉と仲好くなり過ぎてしまった。仇討なんぞはあぶないからお止《よ》しなさいと、女がしきりに心配して制《と》めるようになった。
こんなことをしていた処で、仇のありかはとても知れそうもない。万一知れたところで、尋常に助太刀の務めを果たすほどのしっかりした覚悟をもっていない彼等は、時の過ぎゆくに従って自分たちの行く末を考えなければならなかった。百日の期限が過ぎて仇のゆくえが知れない暁には、自分たちの不首尾は眼に見えている。一体江戸にいるか居ないか確かに判りもしないものを、日限を切って探し出せというのが無理であるが、それも屋敷の命令であるから仕方がない。まさかに長《なが》の暇《いとま》にもなるまいとはいうものの、身持放埓とかいうような名義のもとに、国許へ追い返されるぐらいのことは覚悟しなければならない。毎日うかうかと遊んでいる間にも、この不安が重い石のように彼等の胸をおしつけていた。
「いっそおれは浪人する」と、高島は云い出した。彼のうしろにはお吉という女の影が付きまつわっていた。国へ追い返されると、もう彼女に逢えないというのを高島は恐れていた。しかし高島ほど根強い理由をもっていない梶井は、国へ返されるのを恐れながらも、さすがに思い切って浪人する気にもなれなかった。かれは独身者《ひとりもの》の高島と違って、故郷に母や兄や妹をもっていた。
「まあ、そんな短気を出すな」と、彼は高島をなだめていた。しかし今年の春になってから、高島はいよいよその決心を固めたらしく、毎朝屋敷を出るときに、自分の大事の手道具などを少しずつ抱え出して、お吉のもとへそっと運び込んでいるらしかった。そのうちに湯屋の亭主もだんだんに眼をつけ始めた。ここの亭主は岡っ引の手先であるということをお吉もささやいた。この際つまらない疑いなどを受けてはいよいよ面倒と思った彼は、もう落ち着いていられないような心持になって、女と相談してどこへか一緒に姿を隠したらしく、ゆうべは屋敷へ戻って来ないので、梶井も心配して今朝ここへ探しに来たのであった。
かたき討の理由も、駈落ちの理由も、それですっかり判った。それにしても、高島がお吉に預けて置いた疑問のふた品はなんであろう。
「あれは高島が家重代の宝物でござる」と、梶井は説明した。
豊臣秀吉が朝鮮征伐のみぎりに、高島が十代前の祖先の弥五右衛門は藩主にしたがって渡海した。その時に分捕りして持ち帰ったのが彼《か》の二品で、干枯《ひから》びた人間の首と得体の知れない動物の頭と――それは朝鮮の怪しい巫女《みこ》が、まじないや祈祷の種に使うもので、殆ど神のようにうやうやしく祀られていたものであった。余り珍らしいので持ち帰ったが、誰にもその正体は判らなかった。ともかくも一種の宝物として高島の家に伝えられていて、藩中でも誰知らぬ者もない。梶井も一度見せられたことがある。今度屋敷を立退くに就いても、まずこの奇怪な宝物をお吉にあずけて置いたものと察せられた。
泥鮫の方は梶井も知らないと云った。しかし高島の祖父という人は久しく長崎に詰めていたことがあるから、おそらくその当時に異国人からでも手に入れたものであろうとのことであった。泥鮫は金になるから売ってしまったが、他の二品は買い手もない。殊に家に伝わる宝物であるから、女と一緒にかかえて行ったものであろう。人間
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