ゃって置け」
二人は銜《くわ》え楊枝で帰って来ると、一人の若い武士が湯屋の暖簾をくぐって出るのを遠目に見つけた。彼はさっき日蔭町へ泥鮫を売りに行った武士に相違なかった。彼は萠黄の風呂敷につつんだ一個の箱のようなものを大事そうに抱えているらしかった。
「あ、野郎が来ましたよ。あの箱を一つ抱え出したらしゅうがすぜ」と、熊蔵は眼をひからして伸び上がった。
「ちげえねえ。すぐ尾《つ》けてみろ」
「よがす」
熊蔵はすぐに彼のあとを尾けて行った。半七は引っ返して湯屋にはいって、念のために二階にあがって見ると、お吉の姿がいつの間にか消えていた。更に戸棚をあらためると、かの怪しい二つの箱も見えなかった。
「みんな持ち出してしまいやあがったな」
二階を降りて来て番台の男に訊くと、お吉はたった今階子を降りて奥へ行ったらしいと云うので、半七もつづいて奥へ行った。釜の下を焚《た》いている三助の話によると、お吉はちょいとそこまで行って来ると云って、そそくさと表へ出て行ったとのことであった。
「なにか抱えていやしなかったか」
「さあ、知りましねえ」
山出しの三助はぼんやりしていて何も気がつかなかったのである。半七は思わず舌打ちした。自分達が飯を食いに行っている間に、丁度かの武士が来たので、お吉はかれと諜《しめ》し合わせて、めいめいに秘密の箱を一つずつかかえて、裏と表から分かれ分かれに脱け出したに相違ない。一と足違いで飛んでもないどじ[#「どじ」に傍点]を踏んだと、半七は自分の油断をくやんだ。
「こうと知ったら、いっそお吉の奴を引き揚げて置けばよかった」
彼はまた引っ返して、番台の男にお吉の家《うち》を訊いた。明神前の裏に住んでいると云うので、すぐにそこへ追ってゆくと、兄は仕事に出て留守であった。正直そうな母が一人で襤褸《ぼろ》をつづくっていて、お吉は今朝いつもの通りに家を出たぎりでまだ帰らないと云った。母の顔色には嘘は見えなかった。狭い家であるから何処にも隠れている様子もなかった。半七はまた失望して帰った。帰ると、やがて熊蔵も詰まらなそうな顔をして帰って来た。
「親分、いけねえ、途中で友達に出っくわして、ちょいと一と言話しているうちに、奴はどこかへか消えてしまやあがった」
「馬鹿野郎。御用の途中で友達と無駄話をしている奴があるか」
今更叱っても追っ付かないので、半七はじりじりして来た。
「泣いても笑っても今日はもう仕方がねえ。お吉の奴が家へ帰るかどうだか能く気をつけていろ。それからもう一人の武士が来たらば、今度こそしっかりと後をつけて、よくその居どこを突き留めて置け。てめえの種出しじゃあねえか、少し身を入れて働け」
その日はそのまま別れて帰ったが、なんだか疳《かん》が昂ぶって半七はその晩おちおち寝付かれなかった。明くる朝はひどく寒かった。彼はいつもの通りに冷たい水で顔を洗って家を飛び出すと、朝日のあたらない横町は鉄のように凍って、近所の子供が悪戯《いたずら》にほうり出した隣りの家の天水桶の氷が二寸ほども厚く見えた。
半七は白い息を噴きながら、愛宕下へ急いで行った。
「どうだ、熊。あれぎり変ったことはねえか」
「親分。お吉の奴は駈け落ちをしたようですよ。とうとうあれぎりで家へ帰らねえそうで、今朝おふくろが心配らしく訊きに来ましたよ」と、熊蔵は顔をしかめてささやいた。
「そうか」と、半七の額にも太い皺が描かれた。「だが、まあ仕方がねえ。もう一日気長に網を張っていてみよう。もう一人の奴がやって来ねえとも限らねえから」
「そうですねえ」と、熊蔵は張り合い抜けがしたようにぼんやりしていた。
半七は二階にあがると、けさはお吉がいないので其処には火の気もなかった。熊蔵の女房が言い訳をしながら火鉢や茶などを運んで来た。朝のあいだは二階へあがる客もないので、半七は煙草をのみながら唯ひとりつくねんと坐っていると、春の寒さが襟にぞくぞくと沁みて来た。
「お吉の奴め、この頃は浮わついているんで、障子も碌に貼りゃあがらねえ」と、熊蔵は窓の障子の破れを見かえりながら舌打ちした。
半七は返事もしないで考えつめていた。おととい此の二階で発見した人間の首、動物の頭、きのう日蔭町で見た泥鮫の皮、それが一つに繋がって彼の頭の中を走馬燈《まわりどうろう》のようにくるくると駈け廻っていた。魔法つかいか、切支丹か、強盗か、その疑いも容易に解決しなかった。それに付けても、昨日かの武士の後を尾《つ》け損じたのが残念であった。熊蔵のようなどじ[#「どじ」に傍点]を頼まずに、いっそ自分がすぐに尾けて行けばよかったなどと、今更のように悔まれた。
親分の顔色が悪いので、熊蔵も手持無沙汰で黙っていた。芝の山内の鐘がやがて四ツ(午前十時)を打った。下の格子があいたと思うと、番台の男が「いらっ
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