が死んだあとでは、せめて御線香の一本も供えておくれ。それが一生のお願いだ。ここに給金の溜めたのが二両一分ある。これはみんなお前にあずけて行くから」
 声はいよいよ陰って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のすすり泣きをする声もおりおりに聞えた。石町《こくちょう》の八ツ(午後二時)の鐘が響いた。それに驚かされたように、障子の内では人の起ちあがる気配がしたので、半七は再び南天の繁みに隠れると、縁をふむ足音が力なくきこえて、和吉は縁づたいにしょんぼりと影のように出て行った。泥足をはたいて半七は縁に上がった。
 それから再び店へ行ってみると、和吉の姿はここに見えなかった。帳場の番頭を相手にしばらく世間話をしていたが、和吉はやはり出て来なかった。
「時に和吉さんという番頭はさっきから見えませんね」と、半七は空とぼけて訊いた。
「さあ、どこへ行きましたかしら」と、大番頭も首をかしげていた。「使に出たはずもないんですが……。なんぞ御用ですか」
「いえ、なに。だが、外へでも出た様子だかどうだか、ちょいと見て来てくれませんか」
 小僧は奥へはいったが、やがて又出て来て、和吉は奥にも台所にも見えないと云った。
「それから大和屋の旦那はまだおいでですか」と、半七はまた訊いた。
「へえ。大和屋の旦那はまだ奥にお話をしていらっしゃいますようで……」
「わたしがちょっとお目にかかりたいと、そう云ってくれませんか」
 襖を閉め切った奥の居間には、主人夫婦と十右衛門とが長火鉢を取り巻いて、昼でも薄暗い空気のなかに何かひそひそ相談をしていた。おかみさんは四十前後の人品の好い女で、眉のあとの薄いひたいを陰らせていた。半七はその席へ案内された。
「もし、旦那。若旦那のかたきは知れました」と、半七は小声で云った。
「え」と、こっちへ向いた三人の眼は一度に輝いた。
「お店の人間ですよ」
「店の者……」と、十右衛門は一と膝乗り出して来た。「じゃあ、さっきお前さんがあんなことを云ったのはほんとうなんですか」
「酔った振りしてさんざん失礼なことを申し上げましたが、科人《とがにん》はお店の和吉ですよ」
「和吉が……」
 三人は半信半疑の眼を見あわせているところへ、女中の一人があわただしく転《ころ》げ込んで来た。何かの用があって裏の物置へはいると、そこに和吉が首を縊《くく》って死んでいたというのであっ
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