悪夢を呼び起すに堪えないように、唯さめざめと泣いているばかりであった。この二、三日の春めいた陽気にだまされて、どこかで籠の鶯が啼いているのも却って寂しい思いを誘われた。
 お冬の胸に燃えていた恋の火は、灰となってもう頽《くず》れてしまったのかも知れない。彼女は過去の楽しい恋の記憶については、何も話そうとしなかった。しかし惨《みじ》めな彼女の現在については、不十分ながらも半七の問いに対してきれぎれに答えた。旦那やおかみさんは自分に同情して、勿体ないほど優しくいたわってくださると彼女は語った。店の人達のうちでは和吉が一番親切で、けさから店の隙を見てもう二度も見舞に来てくれたと語った。
「じゃあ、今も見舞に来ていたんだね。そうして、どんな話をしていたんだ」と、半七は訊いた。
「あの、若旦那がああなってしまっては、このお店に奉公しているのも辛いから、わたしはもうお暇を頂こうかと思うと云いましたら、和吉さんはまあそんなことを云わないで、ともかくも来年の出代りまで辛抱するがいいとしきりに止めてくれました」
 半七はうなずいた。
「いや、有難う。折角寝ているところを飛んだ邪魔をして済まなかった。まあ、からだを大事にするが好いぜ。それから大和屋の旦那、お店の方へちょいと御案内を願えますまいか」
「はい、はい」
 十右衛門は先に立って店へ出て行った。半七はよろけながら付いて行った。さっきの酔いがだんだん発したと見えて、彼の頬はいよいよ熱《ほて》って来た。
「旦那。店の方はこれでみんなお揃いなんですか」と半七は帳場から店の先をずらりと見渡した。四十以上の大番頭が帳場に坐って、その傍に二人の若い番頭が十露盤《そろばん》をはじいていた。ほかにもかの和吉ともう一人の中年の男が見えた。四、五人の小僧が店の先で鉄釘《かなくぎ》の荷を解いていた。
「はい。丁度みんな揃っているようでございます」と、十右衛門は帳場の火鉢のまえに坐った。
 半七は店のまん中にどっかりと胡坐《あぐら》をかいて、更に番頭や小僧の顔をじろじろ見まわした。
「ねえ、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは、清正公《せいしょうこう》様と和泉屋だという位に、江戸中に知れ渡っている御大家《ごたいけ》だが、失礼ながら随分不取締りだと見えますね。ねえ、そうでしょう。主《しゅう》殺しをするような太てえ奴らに、飯を食わして給金をやって、こうして
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