に真っ蒼な顔を出した。そのたびごとに幼いお春も「ふみが来た」と同じく叫んだ。気の弱いお道はもう我慢が出来なくなったが、それでも夫に打ちあける勇気はなかった。
 こういうことが四晩もつづいたので、お道も不安と不眠とに疲れ果ててしまった。恥も遠慮も考えてはいられなくなったので、とうとう思い切って夫に訴えると、小幡は笑っているばかりで取り合わなかった。しかし濡れた女はその後もお道の枕辺《まくらべ》を去らなかった。お道がなんと云っても、夫は受け付けてくれなかった。しまいには「武士の妻にもあるまじき」というような意味で、機嫌を悪くした。
「いくら武士でも、自分の妻が苦しんでいるのを、笑って観《み》ている法はあるまい」
 お道は夫の冷淡な態度を恨むようになって来た。こうした苦しみがいつまでも続いたら、自分は遅かれ速《はや》かれ得体《えたい》の知れない幽霊のために責め殺されてしまうかも知れない。もうこうなったら娘をかかえて一刻《いっとき》も早くこんな化け物屋敷を逃げ出すよりほかあるまいと、お道はもう夫のことも自分のことも振り返っている余裕がなくなった。
「そういう訳でございますから、あの屋敷にはどう
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