にお春はおそわれたように叫んだ。
「ふみが来た!」
 明くる晩もまた叫んだ。
「ふみが来た!」
 飛んだことをしたと後悔して、お道は早々にかの草双紙を返してしまった。お春は三晩つづいてお文の名を呼んだ。後悔と心配とで、お道も碌々に眠られなかった。そうして、これが彼《か》の恐ろしい禍いの来る前触れではないかとも恐れられた。彼女の眼の前にも、お文の姿がまぼろしのように現われた。
 お道もとうとう決心した。自分の信じている住職の教えにしたがって、ここの屋敷を立ち退くよりほかはないと決心した。無心の幼児《おさなご》がお文の名を呼びつづけるのを利用して、かれは俄《にわか》かに怪談の作者となった。その偽りの怪談を口実にして、夫の家を去ろうとしたのであった。「馬鹿な奴め」と、小幡は自分の前に泣き伏している妻を呆《あき》れるように叱った。しかし、こんな浅はかな女の企みの底にも、人の母として我が子を思う愛の泉のひそんで流れていることを、Kのおじさんも認めないわけには行かなかった。おじさんの取りなしで、お道はようように夫のゆるしを受けた。
「こんなことは義兄《あに》の松村にも聞かしたくない。しかし義兄の手
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