込まれるのに忙しい私の頭からは、おふみと云ふ女の名も次第に煙のやうに消えてしまつた。それから二年ほど經つて、なんでも十一月の末であつたと記憶してゐる。わたしが學校から歸る頃から寒い雨がそぼそぼと降り出して、日が暮れる頃には可なりに強い降りになつた。Kのをばさんは近所の人に誘はれて、けふは午前《ひるまへ》から新富座見物に出かけた筈である。
「わたしは留守番だから、あしたの晩は遊びにおいでよ。」と前の日にKのをぢさんが云つた。わたしはその約束を守つて、夕飯を濟ますと直ぐにKのをぢさんをたづねた。Kの家はわたしの家から直徑にして四町ほどしか距《はな》れてゐなかつたが、場所は番町で、その頃には江戸時代の形見といふ武家屋敷の古い建物がまだ取拂はれずに殘つてゐて、晴れた日にも何だか陰《かげ》つたやうな薄暗い町の影を作つてゐた。雨のゆふぐれは殊に侘《わび》しかつた。Kのをぢさんも或大名屋敷の門内に住んでゐたが、おそらく其の昔は家老とか用人とかいふ身分の人の住居であつたらう。兎《と》も角《かく》も一軒建になつてゐて、小さい庭には粗《あら》い竹垣が結びまはしてあつた。
 Kのをぢさんは役所から歸つて、も
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