お文の名を呼んだ。後悔と心配とでお道も碌々に眠られなかつた。さうして、これが彼《か》の恐ろしい禍《わざはひ》の來る前觸れではないかとも恐れられた。彼女の眼の前にもお文の姿がまぼろしのやうに現れた。
 お道もたうとう決心した。自分の信じてゐる住職の教へにしたがつて、こゝの屋敷を立退くより他はないと決心した。無心の幼兒《をさなご》がお文の名を呼びつゞけるのを利用して、かれは俄に怪談の作者となつた。その僞りの怪談を口實にして、夫の家を去らうとしたのであつた。
「馬鹿な奴め。」と、小幡は自分の前に泣き伏してゐる妻を呆れるやうに叱つた。併しこんな淺墓《あさはか》な女の巧みの底にも人の母として我子を思ふ愛の泉の潜んで流れてゐることを、Kのをぢさんも認めないわけには行かなかつた。をぢさんの取りなしで、お道はやうやうに夫の宥《ゆる》しを受けた。
「こんなことは義兄《あに》の松村にも聞かしたくない。しかし義兄の手前、屋敷中の者どもの手前、なんとかをさまりを付けなければなるまいが、何うしたものでござらう。」
 小幡から相談をうけてKのをぢさんも考へた。結局、をぢさんの菩提寺の僧を頼んで、表向きは得體《えたい》の知れないお文の魂のために追善供養を營むと云ふことにした。お春は醫師の療治をうけて夜啼をやめた。追善供養の功力《くりき》によつて、お文の幽靈も其後は形を現さなくなつたと、まことしやかに傳へられた。
 その祕密を知らない松村彦太郎は、世の中には理窟で説明のできない不思議なこともあるものだと首をかしげて、日頃自分と親しい二三の人達にひそかに話した。わたしの叔父もそれを聽いた一人であつた。
 お文の幽靈を草雙紙のなかから見つけ出した半七の鋭い眼力を、Kのをぢさんは今更のやうに感服した。淨圓寺の住職はなんの目的でお道に怖ろしい運命を豫言したか、それに就いては半七も餘り詳しい註釋を加えるのを憚つてゐるらしかつたが、それから半年の後にその住職が女犯《によぼん》の罪で寺社方の手に捕はれたのを聽いて、お道は又ぞつ[#「ぞつ」に傍点]とした。彼女は危い斷崖の上に立つてゐたのを、幸ひに半七のために救はれたのであつた。
「今もいふ通り、この祕密は小幡夫婦と私のほかには誰も知らないことだ。小幡夫婦はまだ生きてゐる。小幡は維新後に官吏となつて今は相當の地位にのぼつてゐる。わたしが今夜話したことは誰にも吹聽《
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