、わたしに説明してくれた。
それを聽いてからお道には暗い陰が絆《まつ》はつて離れなかつた。どんな禍《わざはひ》が降りかゝつて來やうとも自分だけは前世の約束とも諦めよう。しかし可愛い娘にまでまきぞへの禍《わざはひ》を着せると云ふことは、母の身として考へることさへも怖ろしかつた。あまりに痛々しかつた。お道にとつては、夫も大切に相違なかつたが、娘は更に可愛かつた。自分の命よりもいとほしかつた。第一に娘を救ひ、あはせて自分の身を全うすることは、飽きも飽かれもしない夫の家を去るよりほかにないと思つた。
それでも彼女は幾たびか躊躇した。そのうち二月も過ぎて、娘のお春の節句が來た。小幡の家でも雛を飾つた。緋桃白桃の影をおぼろに揺《ゆる》がせる雛段の夜の灯を、お道は悲しく見つめた。來年も再來年も無事に雛祭が出來るであらうか。娘はいつまでも無事であらうか。呪はれた母と娘とは何方《どちら》が先に禍《わざはひ》を受けるのであらうか。そんな恐れと悲しみとが彼女の胸一ぱいに擴がつて、あはれなる母は今年の白酒に酔へなかつた。
小幡の家では五日の日に雛をかたづけた。今更ではないが雛の別れは寂しかつた。その日の午《ひる》すぎにお道が貸本屋から借りた草雙紙を讀んでゐると、お春は母の膝に取附きながらその※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] 繪を無心に覗いてゐた。草雙紙は、かの薄墨草紙で、酷《むご》い主人の手討に逢つて、杜若《かきつばた》の咲く古池に沈められたお文といふ腰元の魂が、奥方のまへに形をあらはしてその恨みを訴へるといふところで、その幽靈がもの凄く描いてあつた。稚いお春もこれには餘ほど脅《おびや》かされたらしく、その繪を指して「これ、何。」と、怖々《こはごは》訊いた。
「それは文といふ女のお化けです。お前もおとなしくしないと、庭のお池からかういふ怖《こは》いお化けが出ますよ。」
嚇《おど》す積《つも》りでもなかつたが、お道は何心なく斯う云つて聞かせると、それがお春の神經を強く刺戟したらしく、ひきつけたやうに眞蒼になつて母の膝にひしと獅噛《しが》み付いてしまつた。
その晩にお春はおそはれたやうに叫んだ。
「ふみが來た!」
明くる晩もまた叫んだ。
「ふみが來た!」
飛んだことをしたと後悔して、お道は早々に彼の草雙紙を返してしまつた。お春は三晩つゞいて
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