ゃあ、どうしても帰らねえというのか。」
「帰らないよ。誰が帰るものか。」と、女は吐き出すように言った。
「じゃあ、どうするんだ。」
「死ぬのさ。」
「死ぬ……。」と、男は冷笑《あざわら》った。「きまり文句で嚇かすなよ。死ぬなら俺が一緒に心中してやらあ。」
「まっぴらだよ。誰がお前なんぞと……。あたしは一人で死ぬから邪魔をしておくれでないよ。」
「駄々をこねずに、まあ帰れよ。おたがいに考え直して、いい相談をしようじゃあねえか。」
「ふん、なにがいい相談だ。あたしは三日前にここから身を投げるつもりのところを、お前のようなゲジゲジ虫に取っ捉《つか》まって……。」
「そのゲジゲジが留めなけりゃあ、おめえはドブンを極《き》めたところだったじゃねえか。」
「だからさ。いっそ一と思いにドブンを極めようとしたところを、飛んだ奴に邪魔されて……。」と、女は激しく罵った。「いい相談があると瞞《だま》されて、掃溜《はきだめ》のような穢《きたな》い長屋の奥へ引っ張り込まれて、三日のあいだ、腹さんざん慰み物にされて、身ぐるみ剥がれて古浴衣一枚にされて……。揚句の果てに宿場女郎にでも売り飛ばそうとする、おまえの相談は聞かずとも判っているんだ。どうせ死ぬと決めた体だから、どうなってもいいようなものだが、あたしはお前のような男に骨までしゃぶられるような罪は作らないよ。」
「なに、罪は作らねえ……。女のくせに人殺しまでして、罪を作らねえが聞いて呆れらあ。よく考えて物をいえ。」
「人殺しはお前じゃあないか。」
その声が高くなったので、男は暗いなかにあたりを憚《はばか》るように言った。
「おれはおめえを救ってやったのだ。」
「救ってくれたら、それでいいのさ。いつまで恩に着せることはないじゃないか。文句があるなら、千鳥へ行ってお言いよ。」
「べらぼうめ。うかうか千鳥なんぞへ面《つら》を出して、馬鹿息子と一緒に番屋へしょびかれて堪《たま》るものか。」
さっきからの押問答をぬすみ聴いて、庄吉は男が何者であるかを覚った。男は近所の裏長屋に住む虎七という独り者で、表向きは瓦屋の職人であるが、商売はそっちのけで、ぐれ歩いている札付《ふだつき》のならずものである。女は何者であるか判らないが、ともかくもその事件が人殺しに関係しているらしいので、庄吉はおどろいた。殊に千鳥という名が彼の注意をひいた。
こうなっては聞
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