き捨てにならないと思ったので、彼は早々に引っ返して親父の庄作に注進《ちゅうしん》した。
かれらの家は渡し場の近所で、庄作は今や一|合《ごう》の寝酒を楽しんでいるところであったが、それを聞いて眉をよせた。
「そりゃあ大変だ。なにしろ俺も行って様子を見届けよう。」
庄吉に案内させて庄作も川端へ忍んで行くと、二つの黒い影はもうそこに見いだされなかった。
暗いなかで聞こえるのは、岸に触れる水の音のみである。女は死ぬと言っていたから、庄吉の立去ったあとに身でも投げたか、それとも男に引摺られて帰ったか、それらはいっさい不明であった。
「お父っさん、どうしよう。」
「さあ。」と、庄作も考えた。「ほか場所ならばともかくも、渡し場近所で何事かあったのを素《そ》知らん顔をしていては、後日に何かの迷惑にならねえとも限らねえ。念のために届けて置くがよかろう。」
親子は一応その次第を自身番へ届けて出た。
しかもその男も女もすでにどこへか立去ってしまったというのでは、別に詮議の仕様もないので、自身番でもそのままに捨てて置いた。
四
こんにちと違って、その当時の橋場あたりの裏長屋は狭い。殊に虎七の住み家《か》はその露地の奥の奥で、四畳半|一間《ひとま》に型ばかりの台所が付いているだけである。そこへ町方《まちかた》の手先がむかったのは明くる日の午《ひる》ごろであった。
庄作親子の届け出でを聞いて、自身番でもその夜はそのままに捨てて置いたが、仮りにもそれが千鳥の女房殺しに関係があるらしいというのでは、もちろん聞き流しには出来ないので、明くる朝になって町《ちょう》役人にも申立て、さらに町方にも通じたので、ともかくも虎七を詮議しろということになって、町方の手先は直ぐに召捕りに行きむかうと、虎七の家の雨戸は閉め切ってあった。こんな奴等は盗人《ぬすっと》も同様、あさ寝も昼寝もめずらしくないので、手先は雨戸をこじ明けて踏み込むと、虎七は煎餅蒲団の上に大きい口をあいて蹈《ふ》んぞり返っていた。寝ているのではない、頸を絞められているのであった。
川端の闇で虎七と争っていた女が清元延津弥であるらしいことは、読者もおそらく想像したであろう。捕り方もその判断の付かない筈はなかった。延津弥は一旦ここへ引戻されて、虎七の酔って眠った隙をみて、かれを絞め殺して逃げたに相違ない。四畳半の隅には徳利
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