二階から
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訳《わけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)現在|閉籠《とじこも》って

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]
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二階からといって、眼薬をさす訳《わけ》でもない。私が現在|閉籠《とじこも》っているのは、二階の八畳と四畳の二間で、飯でも食う時のほかは滅多《めった》に下座敷などへ降りたことはない。わが家ながらあたかも間借りをしているような有様で、私の生活は殆《ほとん》どこの二間に限られている。で、世間を観《み》るのでも、月を観るのでも、雪を観るのでも、花を観るのでも、すべてこの二階から観る。随って眼界は狭い。その狭い中から見出したことの二つ三つをここに書く。
[#ここで字下げ終わり]

     一 水仙

 去年の十一月に支那水仙を一鉢買った。勿論相当に水も遣《や》る、日にも当てる。一通りの手当は尽していたのであるが、十二月になっても更に蕾《つぼみ》を出さない。無暗《むやみ》に葉が伸びるばかりである。どうも望みがないらしいと思っているところへ、K君が来た。K君は園芸の心得ある人で、この水仙を見ると首を傾《かし》げた。
「君、これはどうもむずかしいよ。恐《おそら》く花は持つまい。」
 こういって、K君は笑った。私も頭を掻《か》いて笑った。その当時K君の忰《せがれ》は病床に横《よこた》わっていたが、病院へ入ってから少しは良《い》いということであった。ところが、その月の中旬に寒気が俄《にわか》に募《つの》ったためか、K君の忰は案外に脆《もろ》く仆《たお》れてしまった。K君の忰は蕾ながらにして散ってしまったのである。私の家の水仙はその蕾さえも持たずして、空しく枯れてしまうであろうと思われた。
 年が明けた。ある暖い朝、私がふとかの水仙の鉢を覗《のぞ》くと、長く伸びた葉の間から、青白い袋のようなものが見えた。私は奇蹟を目撃したように驚いた。これは確《たしか》に蕾である。それから毎日|欠《かか》さずに注意していると、葉と葉との間からは総て蕾がめぐんで来た。それが次第に伸びて拡《ひろ》がって来た。もうこうなると、発育の力は実に目ざましいもので、茎はずんずん[#「ずんずん」に傍点]と伸《のび》てゆく。蕾は日ましに膨《ふく》らんでゆく。今ではもう十数輪の白い花となって、私の書棚を彩《いろど》っている。
 殆ど絶望のように思われた水仙は、案外立派に発育して、花としての使命を十分果した。K君の忰は花とならずして終った。春の寒い夕《ゆうべ》、電灯の燦《さん》たる光に対して、白く匂いやかなるこの花を見るたびに、K君の忰の魂のゆくえを思わずにはいられない。

     二 団五郎

 新聞を見ると、市川団五郎が静岡で客死《かくし》したとある。団五郎という一俳優の死は、劇界に何らの反響もない。少数の親戚や知己は格別、多数の人々は恐らく何の注意も払わずにこの記事を読み過したであろう。しかも私はこの記事を読んで、涙をこぼした一人《いちにん》である。
 団五郎と私とは知己でも何でもない。今日まで一度も交際したことはなかった。が、私の方ではこの人を記憶している。歌舞伎座の舞台開きの当時、私は父と一所《いっしょ》に団十郎の部屋へ遊びにゆくと、丁度わたしと同年配ぐらいの美少年が団十郎の傍《そば》に控えていて、私たちに茶を出したり、団十郎の手廻りの用などを足していた。いうまでもなく団十郎の弟子である。
「綺麗な児《こ》だが、何といいます。」
 父が訊《き》くと、団十郎は笑って答えた。
「団五郎というのです。いたずら者で――。」
 答はこれだけの極めて簡短なものであったが、その笑みを含んだ口吻《くちぶり》にも、弟子を見遣《みや》った眼の色にも、一種の慈愛が籠っていた。この児は師匠に可愛《かあい》がられているのであろうと、私も子供心に推量した。
「今に好い役者になるでしょう。」
 父が重ねていうと、団十郎はまた笑った。
「どうですかねえ。しかしまあ、どうにかこうにかもの[#「もの」に傍点]にはなりましょうよ。」
 若い弟子に就ての問答はこれだけであった。やがて幕が明くと、団十郎は水戸黄門で舞台に現れた。その太刀持を勤めている小姓は、かの団五郎であった。彼は楽屋で見たよりも更に美しく見えた。私は団五郎が好きになった。
 けれども、彼はその後いつも眼に付くほどの役を勤めていなかった。番附をよく調べて見なければ、出勤しているのかいないのか判らない位であった。その中《うち》に私もだんだんに年を取った。団五郎に対する記憶も段々に薄らいで来た。近年の芝居番附には団五郎という名は見えなくなってしまった。二十何年ぶりで今日《こんにち》突然にその訃《ふ》を聞いたのである。何でも旅廻りの新俳優一座に加わって、各地方を興行していたのだという。それ以上のことは詳しく判らないが、その晩年の有様も大抵は想像が付く。
 日本一の名優の予言は外れた。団五郎は遂にもの[#「もの」に傍点]にならずに終った。師匠の眼識違《めがねちが》いか、弟子の心得違いか。その当時の美しい少年俳優がこういう運命の人であろうとは、私も思い付かなかった。

     三 茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗をくれた。おてつ牡丹餅《ぼたもち》の茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町《こうじまち》の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町《もとぞのちょう》一丁目十九番地の角店《かどみせ》で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢集って来る。その傍《そば》に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人《おんなあるじ》のおてつは、もう四十位であったらしい。眉を落して歯を染めた小作りの年増《としま》であった。聟《むこ》を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児《こ》を持っていた。美しい娘も老いて俤《おもかげ》が変ったのであろう。私の稚《おさな》い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛石伝いに奥へ這入《はい》るようになっていた。門の際《きわ》には高い八《や》つ手《で》が栽《う》えてあって、その葉かげに腰を屈《かが》めておてつが毎朝入口を掃《は》いているのを見た。汁粉《しるこ》と牡丹餅とを売っているのであるが、私が知っている頃には店も甚だ寂《さび》れて、汁粉も牡丹餅もあまり旨《うま》くはなかったらしい。近所ではあったが、私は滅多《めった》に食いに行ったことはなかった。
 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋《よろずや》という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日《こんにち》まで繁昌している。おてつ親子は麻布の方へ引越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
 私の貰った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父《おとう》さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意《こんい》にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見といったような心持で、店の土瓶《どびん》や茶碗などを知己の人々に分配した。O君の阿父さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
 汁粉屋の茶碗というけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼《やき》も薬《くすり》も悪くない。平仮名《ひらがな》でおてつと大きく書いてある。私は今これを自分の茶碗に遣《つか》っている。しかしこの茶碗には幾人の唇が触れたであろう。
 今この茶碗で番茶を啜《すす》っていると、江戸時代の麹町が湯気の間から蜃気楼《しんきろう》のように朦朧《もうろう》と現れて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金島田《ぶんきんしまだ》にや[#「や」に傍点]の字の帯を締めた武家の娘が、供《とも》の女を連れて徐《しず》かに這入って来た。娘の長い袂《たもと》は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇《はくせん》を遣っていた。
 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松のような丁稚《でっち》が這入って来た。丁稚は大きい風呂敷包を卸《おろ》して椽《えん》に腰をかけた。どこへか使《つかい》に行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先《ま》ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂で口を拭いて、逃げるように狐鼠狐鼠《こそこそ》と出て行った。
 講武所風の髷《まげ》に結って、黒木綿の紋附、小倉の馬乗袴《うまのりばかま》、朱鞘《しゅざや》の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯《ほおば》の高い下駄をがら付かせた若侍《わかざむらい》が、大手を振って這入って来た。彼は鉄扇《てっせん》を持っていた。悠々と蒲団の上に座って、角細工《つのざいく》の骸骨《がいこつ》を根付《ねつけ》にした煙草入《たばこい》れを取出した。彼は煙を強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽《らいさんよう》の詩を吟じた。
 町の女房らしい二人|連《づれ》が日傘を持って這入って来た。彼らも煙草入れを取出して、鉄漿《おはぐろ》を着けた口から白い煙を軽く吹いた。山の手へ上って来るのは中々|草臥《くたび》れるといった。帰りには平河《ひらかわ》の天神様へも参詣《さんけい》して行こうといった。おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッ[#「どッ」に傍点]という鬨《とき》の声が揚った。ほうろく調練が始まったらしい。
 私は巻煙草を喫《の》みながら、椅子に倚《よ》り掛って、今この茶碗を眺めている。曾《かつ》てこの茶碗に唇を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落付く所へ落付いてしまったのであろう。

     四 植木屋

 植木屋の忰《せがれ》が松の緑を摘《つ》みに来た。一昨年《おととし》まではその父が来たのであるが、去年の春に父が死んだので、その後は忰が代りに来る。忰はまだ若い、十八、九であろう。
 昼休みの時に、彼は語った。
 自分はこの商売をしないつもりで、築地の工手学校に通っていた。もう一年で卒業という間際《まぎわ》に父に死なれた。とても学校などへ行ってはいられない。祖母は父の弟の方へ引取られたが、家には母がある。弟がある。自分は父と同職の叔父《おじ》に附いて出入先を廻ることになった。これも不運で仕方がないが、親父がもう一年生きていてくれればと思うことも度々《たびたび》ある。自分と同級の者は皆学校を卒業してしまった。
 あきらめたというものの、彼の声は陰《くも》っていた。私も暗い心持になった。
 しかし人間は学校を卒業するばかりが目的ではない。ほかにも色々の職業がある。これからの世の中は学校を卒業したからといって、必ず安楽に世を送られると限ったものではない。なまじい学問をしたために、かえって一身の処置に苦《くるし》むようなこともしばしばある。親の職業を受嗣《うけつ》いで、それで世を送って行かれれば、お前に取って幸福でないとはいえない。今お前が羨《うらや》んでいる同級生が、かえってお前を羨むような時節がないとも限らない。お前はこれから他念なく出精《しゅっせい》して、植木屋として一人前の職人になることを心掛けねばならないと、私はくれぐれもいい聞かせた。
 彼も会得したようであった。再び高い梯《はしご》に昇って元気よく仕事をしていた。松の枝が時々にみしりみしり[#「みしりみしり」に傍点]と撓《たわ》んだ。その音を聴《きく》ごとに、私は不安に堪《たえ》なかった。

     五 蜘蛛

 庭の松と高野槙《こうやまき》との間に蜘蛛《くも》が大きな網
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