親は可愛い末の娘を男に渡すことを拒《こば》んだ。若い二人は引分けられた。彼女は男と遠ざかるために、この春のまだ寒い頃に東京へ奉公に出された。その当時既に妊娠していたことを誰も知らなかった。本人自身も心付かなかった。東京へ出て、漸次《しだい》に月の重なるに随って、彼女は初めて自分の腹の中に動く物のあることを知った。
これを知った時の彼女の悲しい心持はどんなであったろう。彼女は故郷へこのことを書いて遣ったが、両親も兄も返事をくれなかった。帰るにも帰られない彼女は、苦しい胸と大きい腹とを抱えてやはり奉公をつづけていると、盆前になって突然に主人から暇が出た。ただならぬ彼女の身体《からだ》が主人の眼に着いたのではあるまいか。主人は給金のほかに反物《たんもの》をくれた。
彼女はいよいよ重くなる腹の児《こ》を抱えて、再び奉公先を探した。探し当てたのが私の家であった。彼女としては辛くもあったろう、苦しくもあったろう、悲しくもあったろう。気心の知れない新しい主人の家へ来て、一生懸命に働いている間にも、彼女は思うことが沢山あったに相違ない。いくら陰陽《かげひなた》がないといっても、主人には見せられぬ涙
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