。車には掩蓋《おおい》がないので、人は皆|湿《ぬ》れていた。娘は蒼白《あおじろ》い顔をして、鬢《びん》に雫《しずく》を滴《た》らしているのが一入《ひとしお》あわれに見えた。
路《みち》が悪いので車輪は容易に進まなかった。車体は右に左に動揺した。車が激しく揺れるたびに、娘は胸を抱えて苦しそうに咳き入った。わたしはもしや肺病患者ではないかと危ぶんだ。
男は焦《じ》れて打々《ターター》と叫んだ。そうして長い鞭をあげて容赦なしに痩せた馬の脊を打った。馬は跳《おど》って狂った。狂いながらにいくたびか高く嘶いた。娘は老女の膝に倒れかかって、血を吐きそうに強く咳き入った。
遼陽から首山堡の方面にかけて、大砲や小銃の音がいよいよ激しくなった。私は車の通り過ぎるのを待ち兼ねて、再び旧《もと》の路に出た。騾馬はまたもや続けて嘶いた。娘は揉み殺されそうに車に揺られていた。やがて男の児も泣き出した。
私が一町ほど行き過ぎた頃にも、騾馬の声は寒い雨の中に遠く聞えていた。
八 おたけ
おたけは暇を取って行った。おとなしくて能《よ》く働く女であったが、たった二週間ばかりで行ってしまった。
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