ぎると朝から細雨《こさめ》が降った。どこやらでからからから[#「からからから」に傍点]という声が聞えた。甥は学校へ行った留守であったので、妻と下女とはその声を尋ねて垣の外へ出た。声は隣家の塀の内にあるらしく思われた。塀の内には紫陽花《あじさい》が繁って咲いていた。
「奥さんここにいますよ」と、下女が囁《ささや》いた。蛙は塀の下にうずくまって昼の雨に歌っているのであった。下女は塀の下から手を入れて難なく彼を捕えて帰った。もう逃げるのじゃないよといい聞かせて、再び彼を築山のかげに放して遣《や》った。その日は一日|降《ふり》暮《くら》した。夕方になると彼は私の庭で歌い始めた。
 家内の者は逃げた鶴が再び戻って来たように喜んだ。築山に最も近い四畳半の部屋に集って、茶を飲みながら蛙の声を聴いた。私の家族は俄《にわか》に風流人になってしまった。
 俄作《にわかづく》りの詩人や俳人は明る日になって再び失望させられた。蛙は再び逃げてしまった。今度はいくら探してももう見えなかった。
 その後にもしばしば雨が降った。しかも再び彼の声を聴くことは能《でき》なかった。隣の庭でも鳴かなかった。甥の作った水出しは
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