《ひらかわ》の天神様へも参詣《さんけい》して行こうといった。おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッ[#「どッ」に傍点]という鬨《とき》の声が揚った。ほうろく調練が始まったらしい。
 私は巻煙草を喫《の》みながら、椅子に倚《よ》り掛って、今この茶碗を眺めている。曾《かつ》てこの茶碗に唇を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落付く所へ落付いてしまったのであろう。

     四 植木屋

 植木屋の忰《せがれ》が松の緑を摘《つ》みに来た。一昨年《おととし》まではその父が来たのであるが、去年の春に父が死んだので、その後は忰が代りに来る。忰はまだ若い、十八、九であろう。
 昼休みの時に、彼は語った。
 自分はこの商売をしないつもりで、築地の工手学校に通っていた。もう一年で卒業という間際《まぎわ》に父に死なれた。とても学校などへ行ってはいられない。祖母は父の弟の方へ引取られたが、家には母がある。弟がある。自分は父と同職の叔父《おじ》に附いて出入先を廻ることになった。これも不運で仕方がないが、親父がもう一年生きていてくれればと思うことも度々《たびたび》ある。自分と同級の者は皆学校を卒業してしまった。
 あきらめたというものの、彼の声は陰《くも》っていた。私も暗い心持になった。
 しかし人間は学校を卒業するばかりが目的ではない。ほかにも色々の職業がある。これからの世の中は学校を卒業したからといって、必ず安楽に世を送られると限ったものではない。なまじい学問をしたために、かえって一身の処置に苦《くるし》むようなこともしばしばある。親の職業を受嗣《うけつ》いで、それで世を送って行かれれば、お前に取って幸福でないとはいえない。今お前が羨《うらや》んでいる同級生が、かえってお前を羨むような時節がないとも限らない。お前はこれから他念なく出精《しゅっせい》して、植木屋として一人前の職人になることを心掛けねばならないと、私はくれぐれもいい聞かせた。
 彼も会得したようであった。再び高い梯《はしご》に昇って元気よく仕事をしていた。松の枝が時々にみしりみしり[#「みしりみしり」に傍点]と撓《たわ》んだ。その音を聴《きく》ごとに、私は不安に堪《たえ》なかった。

     五 蜘蛛

 庭の松と高野槙《こうやまき》との間に蜘蛛《くも》が大きな網を張っている。二本ながら高い樹で丁度二階の鼻の先に突き出ているので、この蜘蛛の巣が甚だ眼障《めざわ》りになる。私は毎朝払い落すと、午頃《ひるごろ》には大きな網が再び元のように張られている。夕方に再び払い落すと、明《あく》る朝にはまたもや大きく張られている。私が根よく払い落すと、彼も根よく網を張る。蜘蛛と私との闘《たたかい》は半月あまりも続いた。
 私は少しく根負けの気味になった。いかに鉄条網を突破しても、当の敵《かたき》の蜘蛛を打ち亡ぼさない限りは、到底最後の勝利は覚束《おぼつか》ないと思ったが、利口な彼は小さい体を枝の蔭や葉の裏に潜めて、巧みに私の竿《さお》や箒《ほうき》を逃れていた。私はこの出没自在の敵を攻撃するべくあまりに遅鈍であった。
 彼の敵は私ばかりではなかった。ある日強い南風が吹き巻《まく》って、松と槙との枝を撓《たわ》むばかりに振り動かした。彼の巣もともに動揺した。巣の一部分は大きな魚に食い破られた網のように裂《さ》けてしまった。彼は例の如く小さい体を忙がしそうに働かせながら、風に揺られつつ網の破れを繕《つくろ》っていた。
 ある日、庭に遊んでいる雀が物に驚いて飛び起《た》った時に、彼の拡《ひろ》げた翼はあたかも蜘蛛の巣に触れた。鳥は向う見ずに網を突き破って通った。それから三十分ばかりの間、小さい虫はまたもや忙がしそうに働かねばならなかった。彼は忠実なる工女のように、息もつかずに糸を織っていた。
 彼は善《よ》く働くと私はつくづく感心した。それと同時に、彼を駆逐《くちく》することは所詮《しょせん》駄目《だめ》だと、私は諦《あきら》めた。わたしはこの頑強《がんきょう》なる敵と闘うことを中止しようと決心した。
 私が蜘蛛の巣を払うのは勿論いたずらではない。しかし命賭《いのちが》けでもこれを取払わねばならぬというほどの必要に迫られている訳《わけ》でもない。単に邪魔だとか目障《めざわ》りだとかいうに過ぎないのである。これが有《あ》ったからといって、私の生活に動揺を来すというほどの大事件ではない。それと反対に、彼に取っては実に重大なる死活問題である。彼が網を張るのは悪戯《いたずら》や冗談《じょうだん》ではない、彼は生きんがために努力しているのである。彼は生きている必要上、網を張って毎日の食を求めなければならない。彼には生に対する強い執着《しゅうじゃく》がある。
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