る記憶も段々に薄らいで来た。近年の芝居番附には団五郎という名は見えなくなってしまった。二十何年ぶりで今日《こんにち》突然にその訃《ふ》を聞いたのである。何でも旅廻りの新俳優一座に加わって、各地方を興行していたのだという。それ以上のことは詳しく判らないが、その晩年の有様も大抵は想像が付く。
日本一の名優の予言は外れた。団五郎は遂にもの[#「もの」に傍点]にならずに終った。師匠の眼識違《めがねちが》いか、弟子の心得違いか。その当時の美しい少年俳優がこういう運命の人であろうとは、私も思い付かなかった。
三 茶碗
O君が来て古い番茶茶碗をくれた。おてつ牡丹餅《ぼたもち》の茶碗である。
おてつ牡丹餅は維新前から麹町《こうじまち》の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町《もとぞのちょう》一丁目十九番地の角店《かどみせ》で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢集って来る。その傍《そば》に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人《おんなあるじ》のおてつは、もう四十位であったらしい。眉を落して歯を染めた小作りの年増《としま》であった。聟《むこ》を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児《こ》を持っていた。美しい娘も老いて俤《おもかげ》が変ったのであろう。私の稚《おさな》い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛石伝いに奥へ這入《はい》るようになっていた。門の際《きわ》には高い八《や》つ手《で》が栽《う》えてあって、その葉かげに腰を屈《かが》めておてつが毎朝入口を掃《は》いているのを見た。汁粉《しるこ》と牡丹餅とを売っているのであるが、私が知っている頃には店も甚だ寂《さび》れて、汁粉も牡丹餅もあまり旨《うま》くはなかったらしい。近所ではあったが、私は滅多《めった》に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋《よろずや》という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日《こんにち》まで繁昌している。おてつ親子は麻布の方へ引越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
私の貰った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父《おとう》さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意《こんい》にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見といったような心持で、店の土瓶《どびん》や茶碗などを知己の人々に分配した。O君の阿父さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗というけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼《やき》も薬《くすり》も悪くない。平仮名《ひらがな》でおてつと大きく書いてある。私は今これを自分の茶碗に遣《つか》っている。しかしこの茶碗には幾人の唇が触れたであろう。
今この茶碗で番茶を啜《すす》っていると、江戸時代の麹町が湯気の間から蜃気楼《しんきろう》のように朦朧《もうろう》と現れて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金島田《ぶんきんしまだ》にや[#「や」に傍点]の字の帯を締めた武家の娘が、供《とも》の女を連れて徐《しず》かに這入って来た。娘の長い袂《たもと》は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇《はくせん》を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松のような丁稚《でっち》が這入って来た。丁稚は大きい風呂敷包を卸《おろ》して椽《えん》に腰をかけた。どこへか使《つかい》に行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先《ま》ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂で口を拭いて、逃げるように狐鼠狐鼠《こそこそ》と出て行った。
講武所風の髷《まげ》に結って、黒木綿の紋附、小倉の馬乗袴《うまのりばかま》、朱鞘《しゅざや》の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯《ほおば》の高い下駄をがら付かせた若侍《わかざむらい》が、大手を振って這入って来た。彼は鉄扇《てっせん》を持っていた。悠々と蒲団の上に座って、角細工《つのざいく》の骸骨《がいこつ》を根付《ねつけ》にした煙草入《たばこい》れを取出した。彼は煙を強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽《らいさんよう》の詩を吟じた。
町の女房らしい二人|連《づれ》が日傘を持って這入って来た。彼らも煙草入れを取出して、鉄漿《おはぐろ》を着けた口から白い煙を軽く吹いた。山の手へ上って来るのは中々|草臥《くたび》れるといった。帰りには平河
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング