毎日払い落されても、毎日これを繕ってゆく。恐《おそら》く彼はいよいよ死ぬという最終の一時間までこの努力をつづけるに相違あるまい。
 私は、彼に敵することは能《でき》ないと悟った。
 小さい虫は遂に私を征服して、私の庭を傲然《ごうぜん》として占領している。

     六 蛙

 次は蛙である。青い脊中に軍人の肩章のような金色の線を幾筋も引いている雨蛙である。
 私の狭い庭には築山《つきやま》がある。彼は六月の中旬頃からひょこり[#「ひょこり」に傍点]とそこに現れた。彼は山をめぐる躑躅《つつじ》の茂みを根拠地として、朝に晩にそこらを這《は》い歩いて、日中にも平気で出て来た。雨が降ると涼しい声を出して鳴いた。
 今年の梅雨中《ばいうちゅう》には雨が少かったので、私の甥《おい》は硝子《がらす》の長い管で水出しを作った。それを楓《かえで》の高い枝にかけてあたかも躑躅の茂みへ細い滝を落すように仕掛けた。午後一時半頃、甥は学校から帰って来ると、すぐにバケツに水を汲み込んで水出しの設備に取《とり》かかる。細い水は一旦《いったん》噴き上って更に真直にさッ[#「さッ」に傍点]と落ちて来ると、夏楓の柔い葉は重い雫《しずく》に堪えないように身を顫《ふる》わした。咲き残っている躑躅の白い花も湿《ぬ》れた頭を重そうに首肯《うなず》かせた。滝は折々に風にしぶいて、夏の明るい日光の前に小さい虹を作った。湿《ぬ》れた苔は青く輝いた。あるものは金色《こんじき》に光った。
「もう今に蛙が出て来るだろう。」
 こういっていると、果して何処《どこ》からか青い動物が遅々《のそのそ》と這い出して来る。彼は悠然として滝の下にうずくまる。そうして、楓の葉を通して絶間《たえま》なしに降り注ぐ人工の雨に浴している。バケツの水が尽きると、甥と下女とが汲み替えて遣《や》る。蛙は眼を晃《ひか》らしているばかりでちっとも動かない。やがて十分か二十分も経ったと思うと、彼は弱い女のような細い顫え声を高く揚げて、からからから[#「からからから」に傍点]というように鳴き始める。調子はなかなか高いので二階にいる私にも能《よ》く聞えた。
 こんなことが十日ほども続くと、彼は何処へか姿を隠してしまった。甥がいくら苦心しても、人工の雨では遂に彼を呼ぶことが能《でき》なくなった。甥は失望していた。私も何だか寂しく感じた。
 それから四日ほど過ぎると朝から細雨《こさめ》が降った。どこやらでからからから[#「からからから」に傍点]という声が聞えた。甥は学校へ行った留守であったので、妻と下女とはその声を尋ねて垣の外へ出た。声は隣家の塀の内にあるらしく思われた。塀の内には紫陽花《あじさい》が繁って咲いていた。
「奥さんここにいますよ」と、下女が囁《ささや》いた。蛙は塀の下にうずくまって昼の雨に歌っているのであった。下女は塀の下から手を入れて難なく彼を捕えて帰った。もう逃げるのじゃないよといい聞かせて、再び彼を築山のかげに放して遣《や》った。その日は一日|降《ふり》暮《くら》した。夕方になると彼は私の庭で歌い始めた。
 家内の者は逃げた鶴が再び戻って来たように喜んだ。築山に最も近い四畳半の部屋に集って、茶を飲みながら蛙の声を聴いた。私の家族は俄《にわか》に風流人になってしまった。
 俄作《にわかづく》りの詩人や俳人は明る日になって再び失望させられた。蛙は再び逃げてしまった。今度はいくら探してももう見えなかった。
 その後にもしばしば雨が降った。しかも再び彼の声を聴くことは能《でき》なかった。隣の庭でも鳴かなかった。甥の作った水出しは物置の隅へ投げ込まれてしまった。
「あんなに可愛《かあい》がって遣《やっ》たのに……」と、甥も下女も不平らしい顔をしていた。
 実際、我々は彼を苦《くるし》めようとはしなかった。寧《むし》ろ彼を愛養していた。しかも彼を狭い庭の内に押込めて、いつまでも自分たちの専有物にしておこうという我儘《わがまま》な意思を持っていたことは否《いな》まれなかった。そこに有形無形の束縛があった。彼は自由の天地にあこがれて、遠く何処へか立去ったのであろう。
 蜘蛛は私に打克《うちか》った。蛙は私の囚《とら》われを逃れた。彼らはいずれも幸福でないとはいえまい。

     七 蛙と騾馬《らば》と

 前回に蛙の話を書いた折に、ふと満洲の蛙を思い出した。十余年前、満洲の戦地で聴いた動物の声で、私の耳の底に最も鮮かに残っているのは、蛙と騾馬との声であった。
 蓋平《がいへい》に宿《とま》った晩には細雨《こさめ》が寂しく降っていた。私は兵站部《へいたんぶ》の一室を仮《か》りて、板の間に毛布を被って転がっていると、夜の十時頃であろう、だしぬけに戸の外でがあがあ[#「があがあ」に傍点]と叫ぶような者があった、ぎいぎい[
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