#「ぎいぎい」に傍点]と響くような者があった。その声は家鴨《あひる》に似て非なるものであった。殊《こと》にその声の大きいのに驚かされた。
 私は蝋燭《ろうそく》を点《つ》けて外を窺《うかが》った。外は真暗《まっくら》で、雨は間断《しきり》なしにしとしと[#「しとしと」に傍点]と降っていた。ぎいぎい[#「ぎいぎい」に傍点]という不思議の声は遠い草叢《くさむら》の奥にあるらしく思われたので、私は蝋燭を火縄《ひなわ》に替えた。そうして、雨の中を根《こん》好《よ》く探して歩いたが、怪物の正体は遂に判らなかった。私は夜もすがらこの奇怪なる音楽のために脅《おび》やかされた。
 夜が明けてから兵站部員に訊《き》くと、彼は蛙であった。その鳴声が調子外れに高いので、初めて聴いた者は誰でも驚かされる、しかも滅多《めった》にその形を視《み》た者はないとのことであった。漢詩では蛙の鳴くことを蛙鳴《あめい》といい蛙吠《あべい》というが、吠《べい》の字は必ずしも平仄《ひょうそく》の都合ばかりでなく、実際にも吠ゆるという方が適切であるかも知れないと、私はこの時初めて感じた。
 日本の演劇《しばい》で蛙の声を聞かせる場合には、赤貝を摺《す》り合せるのが昔からの習《ならい》であるが、『太功記《たいこうき》』十段目の光秀が夕顔棚《ゆうがおだな》のこなたより現《あらわ》れ出《い》でた時に、例の小田の蛙《かわず》が満洲式の家鴨のような声を張上げてぎいぎい[#「ぎいぎい」に傍点]と鳴き出したらどうであろう。光秀も恐《おそら》く竹槍を担《かつ》いで逃げ出すより他《ほか》はあるまい。私は独りで噴飯《ふきだ》してしまった。
 ただし満洲の蛙も悉《ことごと》くこの調子外ればかりではなかった。中には楽人《がくじん》の資格を備えている種類もあった。私が楊家屯《ようかとん》に露宿《ろじゅく》した夕《ゆうべ》、宵《よい》の間は例の蛙どもが破れた笙《しょう》を吹くような声を遠慮なく張上げて、私の安眠を散々に妨害したが、夜の更けるに随ってその声も漸く断えた。今夜は風の生暖い夜であった。空は一面に陰《くも》っていた。近所の溜りの池で再び蛙の声が起った。これは聞慣れた普通の声であった。わたしは久振《ひさしぶり》で故郷の音楽を聴いた。桜の散る頃に箕輪田圃《みのわたんぼ》のあたりを歩いているような気分になった。私は嬉しかった、懐かしかった。疲れた身にも寝るのが惜いように思われたのはこの夜であった。
 騾馬の嘶《いなな》きも甚だ不快な記憶を止めている。これも一種のぎいぎい[#「ぎいぎい」に傍点]という声である。どう考えても生きた物の声とは思われなかった。木と木とが触れ合ったらこんな響を発するであろうかと思われた。そうして如何《いか》にも苦しい、寂しい、悲しい、今にも亡びそうな声である。ある人が彼を評して亡国の声といったのも無理はない。決して目出たい声でない、陽気な声でない、彼は人間の滅亡を予告するように高く嘶《いなな》いているのではあるまいか。
 遼陽の攻撃戦が酣《たけなわ》なる時、私は雨の夕暮に首山堡《しゅざんぼう》の麓へ向った。その途中で避難者を乗せているらしい支那人の荷車に出逢った。左右は一面に高梁《こうりょう》の畑で真中《まんなか》には狭い道が通じているばかりであった。私はよんどころなしに畑へ入って車を避けた。車を牽《ひ》いているのは例の騾馬であった。車に乗っているのは六十あまりの老女と十七、八の若い娘と六、七歳の男の児《こ》の三人で、他に四十位で頬に大きな痣《あざ》のある男が長い鞭《むち》を執《と》っていた。車には掩蓋《おおい》がないので、人は皆|湿《ぬ》れていた。娘は蒼白《あおじろ》い顔をして、鬢《びん》に雫《しずく》を滴《た》らしているのが一入《ひとしお》あわれに見えた。
 路《みち》が悪いので車輪は容易に進まなかった。車体は右に左に動揺した。車が激しく揺れるたびに、娘は胸を抱えて苦しそうに咳き入った。わたしはもしや肺病患者ではないかと危ぶんだ。
 男は焦《じ》れて打々《ターター》と叫んだ。そうして長い鞭をあげて容赦なしに痩せた馬の脊を打った。馬は跳《おど》って狂った。狂いながらにいくたびか高く嘶いた。娘は老女の膝に倒れかかって、血を吐きそうに強く咳き入った。
 遼陽から首山堡の方面にかけて、大砲や小銃の音がいよいよ激しくなった。私は車の通り過ぎるのを待ち兼ねて、再び旧《もと》の路に出た。騾馬はまたもや続けて嘶いた。娘は揉み殺されそうに車に揺られていた。やがて男の児も泣き出した。
 私が一町ほど行き過ぎた頃にも、騾馬の声は寒い雨の中に遠く聞えていた。

     八 おたけ

 おたけは暇を取って行った。おとなしくて能《よ》く働く女であったが、たった二週間ばかりで行ってしまった。
 
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