これまで奉公していたおよねは母が病気だというので急に国へ帰る事になった。その代りとしておたけが目見得《めみえ》に来たのは、七月の十七日であった。彼女《かれ》は相州の大山街道に近い村の生れで、年は二十一だといっていたが、体の小さい割に老《ふ》けて見えた。その目見得の晩に私の甥《おい》が急性|腸胃加答児《ちょういかたる》を発したので、夜半《よなか》に医師を呼んで灌腸をするやら注射をするやら、一家が徹夜で立騒いだ。来たばかりのおたけは勝手が判らないのでよほど困ったらしいが、それでも一生懸命に働いてくれた。暗い夜を薬取りの使《つかい》にも行ってくれた。目見得も済んで、翌日から私の家に居着《いつ》くこととなった。
 彼女は何方《どちら》かといえば温順《おとなし》過ぎる位であった。寧《むし》ろ陰気な女であった。しかし柔順《すなお》で正直で骨を惜まずに能く働いて、どんな場合にも決して忌《いや》そうな顔をしたことはなかった。好い奉公人を置き当てたと家内の者も喜んでいた。私も喜んでいた。すると四、五日経った後《のち》、妻は顔を皺《しか》めてこんなことを私に囁《ささや》いた。
「おたけはどうもお腹《なか》が大きいようですよ。」
「そうかしら。」
 私には能く判らなかった。なるほど、小作りの女としては、腹が少し横肥りのようにも思われたが、田舎生れの女には随分こんな体格の女がないでもない。私はさのみ気にも止めずに過ぎた。
 おたけはいくらか文字《もんじ》の素養があると見えて、暇があると新聞などを読んでいた。手紙などを書いていた。ある時には非常に長い手紙を書いていたこともあった。彼女は用の他《ほか》に殆《ほとん》ど口を利《き》かなかった。いつも黙って働いていた。
 彼女は私の家へ来る前に青山の某《ぼう》軍人の家に奉公していたといった。七人の兄妹のある中で、自分は末子であるといった。実家は農であるそうだが、あまり貧しい家ではないと見えて、奉公人としては普通以上に着物や帯なども持っていた。容貌《きりょう》はあまり好くなかったが、人間が正直で、能く働いて、相当の着物も持っているのであるから、奉公人としては先《ま》ず申分のない方であった。諄《くど》くもいう通り、甚《ひど》く温順い女で、少し粗匆《そそう》でもすると顔の色を変えて平謝《ひらあやま》りに謝まった。
 彼女は「だいなし」という詞《ことば》を無暗《むやみ》に遣《つか》う癖があった。ややもすると「だいなしに暑《あつ》い」とか、「だいなしに遅くなった」とかいった。病気も追々に快《よ》くなった甥などはその口真似《くちまね》をして、頻《しき》りに「だいなし」を流行《はや》らせていた。
 妻も彼女を可愛がっていた。私も眼をかけて遣《や》れといっていた。が、折々に私たちの心の底に暗い影を投げるのは、彼女の腹に宿せる秘密であった。気をつけて見れば見るほどどうも可怪《おかし》いようにも思われたので、私はいっそ本人に対《むか》って打付《うちつけ》に問《と》い糺《ただ》して、その疑問を解こうかとも思ったが、可哀《かあい》そうだからお止《よ》しなさいと妻はいった。私も何だか気の毒なようにも思ったので、詮議《せんぎ》は先《ま》ずそのままにしてしばらく成行《なりゆき》を窺《うかが》っていた。
 月末になると請宿《うけやど》の主人が来て、まことに相済まないがおたけに暇をくれといった。段々聞いてみると、彼女は果して妊娠六ヵ月であった。彼女は郷里にある時に同村の若い男と親しくなったが、男の家が甚だ貧しいのと昔からの家柄が違うとかいうので、彼女の老いたる両親は可愛い末の娘を男に渡すことを拒《こば》んだ。若い二人は引分けられた。彼女は男と遠ざかるために、この春のまだ寒い頃に東京へ奉公に出された。その当時既に妊娠していたことを誰も知らなかった。本人自身も心付かなかった。東京へ出て、漸次《しだい》に月の重なるに随って、彼女は初めて自分の腹の中に動く物のあることを知った。
 これを知った時の彼女の悲しい心持はどんなであったろう。彼女は故郷へこのことを書いて遣ったが、両親も兄も返事をくれなかった。帰るにも帰られない彼女は、苦しい胸と大きい腹とを抱えてやはり奉公をつづけていると、盆前になって突然に主人から暇が出た。ただならぬ彼女の身体《からだ》が主人の眼に着いたのではあるまいか。主人は給金のほかに反物《たんもの》をくれた。
 彼女はいよいよ重くなる腹の児《こ》を抱えて、再び奉公先を探した。探し当てたのが私の家であった。彼女としては辛くもあったろう、苦しくもあったろう、悲しくもあったろう。気心の知れない新しい主人の家へ来て、一生懸命に働いている間にも、彼女は思うことが沢山あったに相違ない。いくら陰陽《かげひなた》がないといっても、主人には見せられぬ涙
前へ 次へ
全10ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング