もあったろう。内所《ないしょ》で書いていた長い手紙には、遣瀬《やるせ》ない思いの数々を筆にいわしていたかも知れない。彼女が陰《くも》った顔をしているのも無理はなかった。そんなこととは知らない私は、随分大きな声で彼女を呼んだ。遠慮なしに用をいい付けた。私は思い遣《や》りのない主人であった。
それでも彼女は幸《さいわい》であった。彼女が奉公替をしたということを故郷へ知らせて遣った頃から、両親の心も和らいだ。子まで生《な》したものを今更どうすることも能《でき》まいという兄たちの仲裁説も出た。結局彼女を呼び戻して、男に添わして遣ろうということになった。そう決ったらば旧の盂蘭盆《うらぼん》前に嫁入させるが土地の習慣《ならわし》だとかいうので、二番目の兄が俄《にわか》に上京した。おたけは兄に連れられて帰ることになったのである。
勿論、暇《いとま》をくれるという話さえ決れば、代りの奉公人の来るまでは勤めてもいいとのことであったが、私たちはいつまでも彼女を引止めておくに忍びなかった。嫁入仕度《よめいりじたく》の都合などもあろうから直《すぐ》に引取っても差支《さしつかえ》ないと答えた。彼女は明《あく》る日《ひ》の午後に去った。
去る時に彼女は二階へ上って来て、わたしの椅子《いす》の下に手を突いて、叮寧《ていねい》に暇乞《いとまご》いの挨拶をした。彼女は白粉《おしろい》を着けて、何だか派手な帯を締めていた。
「私の方ではもっ[#「もっ」に傍点]と奉公していてもらいたいと思うけれども、国へ帰った方がお前のためには都合がいいようだから――。」
私が笑いながらこういうと、彼女は少しく頬を染めて俯向《うつむ》いていた。彼女はさぞ嬉しかろう。貧乏であろうが、家柄が違おうが、そんなことはどうでもいい。彼女は自分の決めた男のところへ行くことが能るようになった。彼女は私生児の母とならずに済んだ。悲しい過去は夢となった。
私も「だいなし」に嬉しかった。
僅か二週間を私の家に送ったおたけは、こんな思い出を残して去った。
九 元園町の春
Sさん。郡部の方もだんだん開けて来るようですね。御宅の御近所も春は定めてお賑《にぎや》かいことでしょう。そこでお前の住んでいる元園町《もとぞのちょう》の春はどうだという御尋《おたず》ねでしたが、私共の方は昨今|却《かえ》ってあなたたちの方よりも寂しい位で、御正月だからといって別に取立てて申上げるほどのこともないようです。しかし折角《せっかく》ですから少しばかり何か御通信申上げましょう。
この頃は正月になっても、人の心を高い空の果へ引揚げて行くような、長閑《のどか》な凧《たこ》のうなりは全然《まるで》聞かれなくなりました。往来の少い横町へ這入《はい》ると、追羽子《おいはご》の春めいた音も少しは聞えますが、その群の多くは玄関の書生さんや台所の女中さんたちで、お嬢さんや娘さんらしい人たちの立交っているのはあまり見かけませんから、門松を背景とした初春《はつはる》の巷《ちまた》に活動する人物としては、その色彩が頗《すこぶ》る貧しいようです。平手《ひらて》で板を叩くような皷《つづみ》の音をさせて、鳥打帽子を被《かぶ》った万歳《まんざい》が幾人《いくにん》も来ます。鉦《かね》や太皷《たいこ》を鳴らすばかりで何にも芸のない獅子舞も来ます。松の内|早仕舞《はやじまい》の銭湯におひねりを置いてゆく人も少いので、番台の三宝の上に紙包の雪を積み上げたのも昔の夢となりました。藪入《やぶいり》などは勿論ここらの一角《いっかく》とは没交渉で、新宿行の電車が満員の札をかけて忙がしそうに走るのを見て、太宗寺《たいそうじ》の御閻魔様《おえんまさま》の御繁昌を窃《ひそ》かに占うに過ぎません。
家々に飼犬が多いに引替えて、猫を飼う人は滅多《めった》にありません。家根伝いに浮かれあるく恋猫の痩せた姿を見るようなことは甚だ稀です。ただ折々に何処《どこ》からか野良猫がさまよって来ますが、この闖入者《ちんにゅうしゃ》は棒や箒《ほうき》で残酷に追い払われてしまいます。夜は静です、実に静です。支那の町のように宵から眠っているようです。八時か九時という頃には大抵の家は門戸を固くして、軒の電灯が白く凍った土を更に白く照しているばかりです。大きな犬が時々思い出したように、星の多い空を仰いで虎のように嘯《うそぶ》きます。ここらでただ一軒という寄席《よせ》の青柳亭《あおやぎてい》が看板の灯《ひ》を卸《おろ》す頃になると、大股に曳き摺って行くような下駄の音が一《ひ》としきり私の門前を賑わして、寄席帰りの書生さんの琵琶歌《びわうた》などが聞えます。跡《あと》はひっそり[#「ひっそり」に傍点]して、シュウマイ屋の唐人笛《とうじんぶえ》が高く低く、夜風にわななくような悲し
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