い余韻を長く長く曳《ひ》いて、横町から横町へと闇の奥へ消えて行きます。どこやらで赤児《あかご》の泣く声も聞えます。尺八を吹く声も聞えます。角の玉突場でかちかち[#「かちかち」に傍点]という音が寒《さ》むそうに聞えます。
 寒の内には草鞋《わらじ》ばきの寒行《かんぎょう》の坊さんが来ます。中には襟巻《えりまき》を暖かそうにした小坊主を連れているのもあります。日が暮れると寒参りの鈴の音も聞えます。麹町通《こうじまちどお》りの小間物屋《こまものや》には今日《こんにち》うし紅《べに》のビラが懸《か》けられて、キルクの草履《ぞうり》を穿《は》いた山の手の女たちが驕慢《きょうまん》な態度で店の前に突っ立ちます。ここらの女の白粉《おしろい》は格別に濃いのが眼に着きます。
 四谷街道に接している故《せい》か、馬力《ばりき》の車が絶間《たえま》なく通って、さなきだに霜融《しもどけ》の路《みち》をいよいよ毀《こわ》して行くのも此頃《このごろ》です。子供が竹馬に乗って歩くのも此頃です。火の番銭の詐欺《さぎ》の流行《はや》るのも此頃です。しかし風のない晴れた日には、御堀《おほり》の堤《どて》の松の梢が自ずと霞んで、英国大使館の旗竿の上に鳶《とび》が悠然と止まっているのも此頃です。
 まだ書いたら沢山ありますが、先《ま》ずここらで御免《ごめん》を蒙《こうむ》ります。さようなら。

     十 お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めてこの病《やまい》が流行《はや》り出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗《しょうけつ》になった。我々はその時初めてインフルエンザという病名を知って、それは仏蘭西《フランス》の船から横浜に輸入されたものだという噂を聞いた。しかしその当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風《そめかぜ》といっていた。何故《なぜ》お染という可愛《かあい》らしい名を冠らせたかと詮議すると、江戸時代にもやはりこれに能《よ》く似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうとある老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料見は、恐らく恋風というような意味で、お染が久松に惚《ほ》れたように、直《すぐ》に感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染には限らない。お夏でもお俊《しゅん》でも小春でも梅川でもいい訳《わけ》であるが、お染という名が一番可愛らしく婀娜気《あどけ》なく聞える。猛烈な流行性を有《も》って往々に人を斃《たお》すようなこの怖るべき病に対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗《すこぶ》る面白い対照である、流石《さすが》に江戸児《えどっこ》らしい所がある。しかし例の大虎列剌《おおこれら》が流行した時には、江戸児もこれには辟易《へきえき》したと見えて、小春とも梅川とも名付親になる者がなかったらしい。ころり[#「ころり」に傍点]と死ぬからコロリだなどと智慧《ちえ》のない名を付けてしまった。
 既にその病がお染と名乗る以上は、これに※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]着《とりつ》かれる患者は久松でなければならない。そこでお染の闖入《ちんにゅう》を防ぐには「久松留守《ひさまつるす》」という貼札《はりふだ》をするがいいということになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励《しょうれい》した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽《あお》って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 二十四年の二月、私が叔父と一所に向島の梅屋敷へ行った、風のない暖い日であった。三囲《みめぐり》の堤下《どてした》を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒の傍《そば》には白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
 その後《のち》にもインフルエンザは幾度も流行を繰返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]着くにはやはり片仮名《かたかな》のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。

     十一 狐妖

 音楽家のS君が来て、狐の軍人という恠談《かいだん》を話して聞かせた。
 それは明治二十五年の夏であった。軍人出身のS君はその当時見習士官として北の国の○○師団司令部に勤務中で、しかも
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