と認めていたが、ほんとうの大尉その人に比較して能く視ると、まるで似付かないほどに顔が違っていた。陸軍大尉の軍服は着けているが、どこの誰だか判らないということになってしまった。要するに彼はほんとうの軍人でない、何者かが軍人に変装してこの火薬庫へ窺《うかが》い寄ったのではあるまいかという決論に到着した。果してそうならば問題がまた重大になって来るので、死体を一先《ひとま》ず室内へ舁《か》き入れて、何や彼《か》やと評議をしている中《うち》に、短い夏の夜《よ》はそろそろ白んで来た。死体は仰向《あおむけ》に横《よこた》えて、顔の上には帽子が被せてあった。
とにかくに人相書《にんそうがき》を認《したた》める必要があるので、一人の少尉がその死体の顔から再び帽子を取除《とりの》けると、彼は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。硝子《ガラス》の窓から流れ込む暁《あかつき》の光に照された死体の顔は、いつの間にか狐に変っていた。狐が軍服を着ていたのであった。
「狐が化けるはずはない。」
若い士官たちは容易に承認しなかった。しかし現在そこに横《よこたわ》っている死体は、人間でない、勿論M大尉でない。たしかに一匹の古狐であった。若い士官たちが如何《いか》に雄弁に論じても、この生きた証拠を動かすことは不可能であった。狐や狸が化けるという伝説も嘘ではないということになってしまった。S君も異議を唱えた一人《いちにん》で、強情に何時《いつ》までも死体を監視していたが、狐は再び人間に復《かえ》らなかった。朝がだんだん明るくなるに従って、彼は茶褐色の毛皮の正体を夏の太陽の強い光線の前に遠慮なく曝《さら》け出《だ》してしまった。ただし軍服や提灯の出所は判らなかった。
「狐が人間に化けるなどということは信じられません。私は今でも絶対に信じません。けれども、こういう不思議な事実を曾《かつ》て目撃したということだけは否《いな》む訳に行きませんよ。どう考えても判りませんねえ」と、S君は首をかしげていた。私も烟《けむ》にまかれて聴いていた。
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「五色筆」南人社
1917(大正6)年11月初版発行
初出:「木太刀」
1915(大正4)年3、7
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