無暗《むやみ》に遣《つか》う癖があった。ややもすると「だいなしに暑《あつ》い」とか、「だいなしに遅くなった」とかいった。病気も追々に快《よ》くなった甥などはその口真似《くちまね》をして、頻《しき》りに「だいなし」を流行《はや》らせていた。
妻も彼女を可愛がっていた。私も眼をかけて遣《や》れといっていた。が、折々に私たちの心の底に暗い影を投げるのは、彼女の腹に宿せる秘密であった。気をつけて見れば見るほどどうも可怪《おかし》いようにも思われたので、私はいっそ本人に対《むか》って打付《うちつけ》に問《と》い糺《ただ》して、その疑問を解こうかとも思ったが、可哀《かあい》そうだからお止《よ》しなさいと妻はいった。私も何だか気の毒なようにも思ったので、詮議《せんぎ》は先《ま》ずそのままにしてしばらく成行《なりゆき》を窺《うかが》っていた。
月末になると請宿《うけやど》の主人が来て、まことに相済まないがおたけに暇をくれといった。段々聞いてみると、彼女は果して妊娠六ヵ月であった。彼女は郷里にある時に同村の若い男と親しくなったが、男の家が甚だ貧しいのと昔からの家柄が違うとかいうので、彼女の老いたる両親は可愛い末の娘を男に渡すことを拒《こば》んだ。若い二人は引分けられた。彼女は男と遠ざかるために、この春のまだ寒い頃に東京へ奉公に出された。その当時既に妊娠していたことを誰も知らなかった。本人自身も心付かなかった。東京へ出て、漸次《しだい》に月の重なるに随って、彼女は初めて自分の腹の中に動く物のあることを知った。
これを知った時の彼女の悲しい心持はどんなであったろう。彼女は故郷へこのことを書いて遣ったが、両親も兄も返事をくれなかった。帰るにも帰られない彼女は、苦しい胸と大きい腹とを抱えてやはり奉公をつづけていると、盆前になって突然に主人から暇が出た。ただならぬ彼女の身体《からだ》が主人の眼に着いたのではあるまいか。主人は給金のほかに反物《たんもの》をくれた。
彼女はいよいよ重くなる腹の児《こ》を抱えて、再び奉公先を探した。探し当てたのが私の家であった。彼女としては辛くもあったろう、苦しくもあったろう、悲しくもあったろう。気心の知れない新しい主人の家へ来て、一生懸命に働いている間にも、彼女は思うことが沢山あったに相違ない。いくら陰陽《かげひなた》がないといっても、主人には見せられぬ涙
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