屋の若い者や出方のうちでも、如才のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それに促されて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅《せんべい》の籠を投げ出すように姉に渡して、一番先に駈出してゆく。木の音はつづいてきこえるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とを遮《さえぎ》る華やかな大きい幕はなおいつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその木の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳《おど》らせて正面をみつめている。
幕があく。『妹脊山婦女庭訓』、吉野川の場である。岩にせかれて咽《むせ》び落ちる山川を境にして、上の方の脊山にも、下の方の妹山にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段が飾られて
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