判っています。しかし今さら思い出したように往来のまん中で、だしぬけにそんなことを言ったのはどういう料簡《りょうけん》か、年のゆかないわたくしには呑み込めませんでしたが、それでも深くも気に留めないで、そのまま自分の家へ帰りました。勿論、母にもそんな話はしませんでした。
その日はずいぶん暑かったのを覚えています。あんまり蒸すから今に夕立でも降るかも知れないと母が言っていますと、果して七つ半、唯今の午後五時でございます。その頃から空が陰って来ました。西の方角で遠い雷《らい》の音がきこえました。わたくしも雷が嫌いですが、母はなおさら嫌いで、かみなり様が鳴り出したが最後、顔の色をかえて半病人のようになってしまうのでございます。空は陰って来る、雷は鳴って来る、母の顔色はだんだん悪くなって来る。わたくしもかねて心得ていますから、蚊帳《かや》を吊る。お線香の支度をする。それから裏の空き地へ出て干物《ほしもの》を片づける。そのうちに大粒の雨が降って来る。いなびかりがする。あわてて雨戸を繰出《くりだ》している間に、母は蚊帳のなかへ逃げ込んでしまいました。
いや、こんなことを詳しく申上げていては長くなり
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