た」
「出発の荷作りならよいように頼むぞ」
「わたくしには出来ませぬ」
同じ迎いでも、これはさっきの若党とは一つにならなかった。血気の彼は居丈高《いたけだか》になって兄に迫った。
「荷作りのこと御承知なら、なぜ早くにお戻り下されぬ。兄弟二人が沢山の荷物、わたくし一人《いちにん》にその取りまとめがなりましょうか。積もって見ても知れているものを……。さあ、直ぐにお起《た》ち下され」
彼は寝ころんでいる兄の腕を掴んで、力任せに引摺り起そうとするので、膝をかしているお花は見兼ねて支《ささ》えた。
「まあ、そのように手暴《てあら》くせずと……。市さまはこの通りに酔うている。連れて帰ってもお役に立つまい。お前ひとりでよいように……」
「それがなるほどなら、かようなところへわざわざ押しかけてはまいらぬ。じゃらけた女どもがいらぬ差し出口。控えておれ」
武者苦者腹《むしゃくしゃばら》の八つ当りに、源三郎は叱りつけた。叱られてもお花は驚かなかった。彼女は白い歯を見せながら、なめらかな京弁でこの若い侍をなぶった。
「お前は市さまの弟御《おととご》そうな。いつもいつも親の仇でも尋ねるような顔付きは、若いお人にはめずらしい。ちっと兄《あに》さまを見習うて、お前も粋《すい》にならしゃんせ。もう近いうちにお下りなら、江戸への土産によい女郎衆をお世話しよ。京の女郎と大仏餅とは、眺めたばかりでは旨味《うまみ》の知れぬものじゃ。噛みしめて味わう気があるなら、お前も若いお侍、一夜の附合いで登り詰める心中者《しんじゅうもの》がないとも限らぬ。兄嫁のわたしが意見じゃ。一座になって面白う遊ばんせ」
「ええ、つべこべ[#「つべこべ」に傍点]とさえずる女め、おのれら売女の分際で、武士に向って仮りにも兄嫁呼ばわり、戯《たわむ》れとて容赦せぬぞ」
彼は扇をとり直して、女の白い頬をひと打ちという権幕に、そばにいる女どもも、おどろいてさえぎった。自分の頭の上でこんな捫着《もんちゃく》を始められては、市之助ももう打棄《うっちゃ》って置かれなくなった。彼はよんどころなく起き直った。
「源三郎、静まらぬか。ここを何処《どこ》だと思っている」
満座の手前、兄もこう叱るよりほかはなかったが、それがいよいよ弟の不平を募らせて、源三郎は更に兄の方へ膝を捻《ね》じ向けた。
「それは手前よりおたずね申すこと。兄上こそここを何処だと思召《おぼしめ》す。我われ一同が遠からず京地を引払うに就いては、上《かみ》の御用は申すに及ばず、銘々の支度やら何やかやで、きのう今日は誰もが眼がまわるほどに忙がしい最中に、短い冬の日を悠長らしく色里の居続け遊び、わたくしの用向きは手前|一人《いちにん》が手足を擦り切らしても事は済めど、上の御用は一人が一人役、それでお前さまのお役が勤まりまするか、支配頭の首尾がよいと思召すか。京|三界《さんがい》まで一緒に連れ立って来て、弟に苦労さするが兄の手柄か、少しは御分別なされませ」
これが過日《このあいだ》から源三郎の胸に畳まっていた不平であった。現に兄は昨夜も戻らない。きょうも戻らない、出発まぎわにあってもまだ止《と》めどもなしに遊び歩いている兄の放埒には源三郎も呆れ果てた。年の若い彼はじりじりするほどに腹が立った。
今夜も荷作りの達しが来たが、自分と家来ばかりでは纏《まと》め方が判らない。さりとておとなしく待っていてはいつ帰るか知れないので、源三郎は焦《じ》れにじれて、自分で兄の在りかを探しに出た。折りからの時雨に湿《ぬ》れながらまず六条の柳町をたずねると、そこには兄の姿が見付からなかった。それからまた方角を変えて祇園へ来て、ようようその居どころを突きとめると、兄は女の膝枕で他愛なく眠っている。源三郎はもう我慢も勘弁も出来なくなって、不平と疳癪《かんしゃく》が一時に爆発したのであった。
それは市之助もさすがに察していた。弟が焦れて怒るのも無理はないと思った。彼は自分の遊興を妨げた弟を憎もうとはしなかった。しかし弟の言い条《じょう》を立てて、これから直ぐに帰る気にもなれなかった。
「もういい、もういい。何もかも判った、判った。おれもやがて帰るから、お前はひと足先へ帰れ」
見え透いた一寸《いっすん》逃れと、弟はなかなか得心しなかった。
「いや、どうでお帰りなさるるなら、手前も一緒にお供いたす。さあ、すぐにお支度なされ」
容赦のない居催促《いざいそく》には、兄も持て余した。
「それは無理というものだ。帰るには相当の支度もある。まあ、何でもよいから先へ行け」
相手になっていては面倒だと、市之助はその場をはずす積もりらしい、酔いにまぎらせてよろけながら席を起《た》つと、お花は彼を囲うようにして、一緒に起った。ほかの女たちもそれを機《しお》に、この面倒な座敷をはずしてしまった。
あとには半九郎とお染とが残った。半九郎は黙って酒を飲んでいた。
五
兄のうしろ姿を見送って、源三郎は少し思案していたが、これも刀をとって続いて起とうとした。あくまでも兄のあとを追って行って、無理に引き戻す積もりであろうと見た半九郎は、さすがに見兼ねて声をかけた。
「源三郎。待て、待て」
源三郎は無言で見返った。さっきから半九郎がそこにいるのを知りながら、彼は何の会釈《えしゃく》もしなかったのである。
「かような場所で立ち騒いでは見苦しい。今夜はおとなしく帰ったがよかろう。兄はきっとこの半九郎が連れて戻る。安心して帰れ、帰れ」と、半九郎は杯を手にしながら言った。
余人《よじん》ならばともかくも、日頃から兄の悪友と睨んでいる半九郎の仲裁を、源三郎は素直に承知する筈はなかった。現に先月の十三夜にも、半九郎はきっと帰すと安受け合いをして置きながら、兄はその晩に帰らなかった。そうした嘘つきの、不信用の半九郎が、今更何を言っても相手にはならぬというように、源三郎は眼に角《かど》を立てて罵《ののし》るように答えた。
「いや、安心してはいられまい。一つ穴のむじな[#「むじな」に傍点]どもが安受け合いを、真《ま》にうけて帰らりょうか。源三郎はもうお身たちに化かされてはおらぬぞ。兄がかようなたわけの有りたけを尽くすも、お身たちのような不仕埒《ふしだら》な朋輩があればこそ。よい朋輩を持って兄も仕合せ者、手前もきっとお礼を申すぞ」
喧嘩腰の挨拶を、半九郎は笑いながら受け流した。
「はは、そのように怒るなよ。お身はまだ年が若いので、一途《いちず》に人ばかり悪い者のように言うが、兄は兄、おれはおれだ。兄が遊ぶと、おれが遊ぶとは、同じ遊びでも心の入れ方が違うかも知れぬ。いや、それはそれとして、兄も今夜が京の遊び納めであろうから、それを無理に連れて帰ろうとするのは余りにむごい、気の毒だ。おれも今引っ返して荷作りをして来たが、兄の指図を受けずともお身と家来どもの手でどうにかなろう。まあ、今晩ひと晩だけは兄を助けてやれ」
「どうにかなる程なら、わざわざ呼びにはまいらぬ」
「理屈っぽい男だ。何にも言わずに帰れ、帰れ」
「帰ろうと帰るまいと手前の勝手だ」と、源三郎は衝《つ》と起った。
強情に兄のあとを追って行こうとするらしいので、お染ももう見ていられなくなった。彼女は思わず起ち上がって源三郎の袂《たもと》をとらえた。
「半さまもあのように言うてござれば、まあ、まあ、お待ちなされませ」
「ええ、うるさい。退《の》いておれ」
源三郎は相手をよくも見定めないで、腹立ちまぎれに突き退けると、かよわいお染は跳ね飛ばされたようによろめいて、そこにある膳の上に倒れかかると、酒も肴も一度に飛び散った。半九郎もむっ[#「むっ」に傍点]とした。
「やい、源三郎。年下の者と思ってよいほどにあしらっていれば、言いたい三昧《ざんまい》の悪口、仕たい三昧の狼藉、もう堪忍がならぬぞよ。素直に手をさげて詫びて帰ればよし、さもなくば、おのれの襟髪を引っつかんで、狗《いぬ》ころのように門端《かどばた》へ投げ出すぞ」
彼も生まれつきは短気な男であった。しかも酒には酔っていた。それでも普段から自分の弟のように思っている源三郎に対して、今まで出来るだけの堪忍をしていたのであるが、眼の前で自分の女を手あらく投げられた、自分の膳を引っくり返された。彼はもう料簡が出来なくなって、大きい声で相手を叱りつけたのである。源三郎も行きがかりで彼に無礼を詫びようとはしなかった。
「はは、そのような嚇《おど》しを怖がる源三郎でない。夜昼となしに兄を誘い出して、あたら侍を腐らせた悪い友達に、何の科《とが》で詫びようか。江戸の侍の面汚《つらよご》しめ。そっちから詫びをせねば堪忍ならぬわ」
「なに、おのれはこの半九郎を江戸の侍の面汚しと言うたな。その子細《しさい》を申せ」
「それを改めて問うことか。御用を怠って遊里に入りびたる奴、それが武士の手本になるか。武士の面汚しと申したに不思議があるか」
「武士の面汚し、相違ないな」
「おお、幾たびでも言って聞かせる。菊地半九郎は武士の面汚し、恥さらし、武士の風上には置かれぬ奴だ」
半九郎の眼の色は変った。
「おお、よく申した。おのれも武士に向ってそれほどのことを言うからは、相当の覚悟があろうな」
「念には及ばぬ。武士にはいつでも覚悟がある」
半九郎は刀をとって突っ立った。
「問答|無益《むやく》だ。源三郎、河原へ来い」
「むむ」
源三郎も負けずに睨み返した。武士と武士とが押っ取り刀で河原へゆく――それが真剣の果し合いであることは、この時代の習いで誰も知っているので、お染は顔の色を変えた。彼女は転げるように二人の侍の間へ割って入った。
「なんぼお侍衆じゃというて、些細《ささい》なことから言い募《つの》って真剣の勝負とは、あまりに御短慮でござります。これ、おがみます、頼みます。どうぞもう一度分別して、仲直りをして下さりませ」
拝《おが》みまわる女を源三郎はまた蹴倒した。
「女がとめるを幸いに、言い出した勝負をやめるか。卑怯者め」
「何の……」と、半九郎は哮《たけ》った。「そう言うおのれこそ逃ぐるなよ」
彼は縁先から庭へ飛び降りると、源三郎もつづいて駈け降りた。
武士と武士との果し合いを、ここらの女どもがどう取り鎮めるすべもないので、お染は息を呑み込んで二人のうしろ影を見送っているばかりであったが、どう考えても落ち着いていられないので、彼女は白い脛《はぎ》にからみつく長い裳《すそ》を引き揚げながら、同じ庭口から二人のあとを追って行った。
小夜時雨《さよしぐれ》、それはいつの間にか通り過ぎて、薄い月が夢のように鴨川の水を照らしていた。
六
素足で河原を踏んでゆく女の足は遅かった。お染は息を切って駈けた。薄月と水明りとに照らされた河原には、二つの刀の影が水に跳《はね》る魚の背のように光っていた。それを遠目に見ていながら、お染はなかなか近寄ることが出来なかった。
二人の刀は入り乱れて、二つの人影は解けてもつれた。お染がだんだん近づくに連れて、鍔《つば》の音までが手に取るように聞えた。と思ううちに、一つの影はたちまち倒れた。一つの影は乗りかかってまた撃ち込んだ。勝負はもう決まったらしいので、お染ははっ[#「はっ」に傍点]と胸が跳《おど》った。彼女は幾たびかつまずきながらようように駈け寄ると、その勝利者はたしかに半九郎と判った。
「半さま」と、彼女は思わず声をかけた。
「お染か」と、半九郎は振り向いた。
「して、相手のお侍は……」
「この通りだ」
半九郎は血刀で指さした。女のおびえた眼にはよく判らなかったが、源三郎は肩と腰のあたりを斬られているらしく、河原の小石を枕にして俯向きに倒れていた。そのむごたらしい血みどろの姿を見て、お染はぞっ[#「ぞっ」に傍点]と身の毛が立った。彼女は膝のゆるんだ人のように顫《ふる》えながらそこにべったりと坐ってしまった。
元和《げんな》の大坂落城から僅か十年あまりで、血の匂いに馴れている侍は、自分の前に横たわっている敵の死骸に眼もくれないで、しずかに川の水を掬《
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