く》んで飲んでいた。お染も息が切れて水が欲しかった。
「もし、わたしにも……」
彼女は手真似で水をくれといった。足が竦《すく》んでもう歩かれないのであった。半九郎はうなずいて両手に水を掬《すく》いあげたが、今の闘いでさすがに腕がふるえているらしく、女のそばまで運んで来るうちに、水は大きい手のひらから半分以上もこぼれ出してしまった。彼は焦《じ》れて自分の襦袢《じゅばん》の袖を引き裂いた。冷たい鴨川の水は、江戸の男の袖にひたされて、京の女の紅い唇へ注ぎ込まれた。
「かよわい女子《おなご》が血を見たら、定めて怖ろしくも思うであろう。どうだ。もう落ち着いたか」
「は、はい。これで少しは落ち着きました」
それにつけても、第一に案じられるのは、男の身の上であった。お染は京の町育ちで、もとより武家の掟《おきて》などはなんにも知らなかったが、こうして人間一人を斬り殺して、それで無事に済むか済まないかを、まず確かめて置きたかった。
「得心《とくしん》づくの果し合いとはいいながら、お前になんにもお咎めはござりませぬかえ」
武士と武士とが得心づくの果し合いである以上、この時代の習いとして相手を斬れば斬りどくで、それがむしろ侍の手柄でもあった。しかし今夜のような出来事は、これには当て嵌《はま》らなかった。上洛の間は身持ちをつつしみ、都の人に笑わるるなと、江戸を発つ時に支配頭から厳しく申渡されてある。その戒めを破って色里へしげしげと足を踏み込む――それだけでも半九郎らに相当の科《とが》はあった。勿論、それも無事に済んでいれば、誰も大目に見逃していてくれるのであるが、こういう事件が出来《しゅったい》した暁には、その詮議が面倒になるのは判り切っていた。場所は色町《いろまち》、酒の上の口論、しかも朋輩《ほうばい》を討ち果したというのでは、どんな贔屓眼《ひいきめ》に見ても弁護の途《みち》がない。切腹の上に家《いえ》断絶、菊地半九郎は当然その罪に落ちなければならなかった。
半九郎もいまさら後悔した。彼は一時の短気から朋輩を殺してしまった。それも憎い仇ならまだしもであるが、普段から弟のように親しんでいる源三郎をどうして討ち果たす気になったか、今更思えば夢のようであった。彼は酒の酔いがだんだんに醒めるに連れて、自分の罪がそぞろに怖ろしくなった。
「侍でも、こうして人を殺せば罪は逃れぬ。尋常に切腹するか、兄の市之助に子細を打明けて、弟の仇と名乗って討たるるか。二つに一つのほかはあるまい」
彼も大きな溜め息をついて、頽《くず》れるように河原に坐ってしまった。
お染は途方にくれた。それでも一生懸命の知恵を絞り出して、男にここを逃げろと言った。この場の有様を見知っている者は自分ひとりであるから、ほかの者の来ないうちに早くここを立ち退いてしまえと勧めた。
「何を馬鹿な」と、半九郎は嘲《あざけ》るように答えた。「菊地半九郎はそれほど卑怯な男でない。さしたる意趣《いしゅ》も遺恨《いこん》もないに、朋輩ひとりを殺したからは、いさぎよく罪を引受けるが武士の道だ。ともかくも市之助に逢って分別を決める」
彼は河原づたいに花菱へ引っ返した。お染も痛む足を引摺りながらその後についてゆくと、市之助はもう寝床へはいっていた。
「市之助、起きてくれ」
屏風の外からそっと声をかけると、市之助は眠そうな声で答えた。
「誰だ。はいれ」
「女はいぬか」
こう言いながら屏風をあけた半九郎の顔は、水のように蒼かった。鬢《びん》も衣紋《えもん》も乱れていた。うす暗い灯の影でそれをじっ[#「じっ」に傍点]と見た市之助は、相方のお花を遠ざけて差向かいになった。
「半九郎。どうした。人でも斬ったか」と、市之助は小声できいた。
半九郎の着物の膝は、血しぶきにおびただしく染められているのを、彼は早くも見付けたのであった。
「推量の通りだ。半九郎は人を斬って来た」
「誰を斬った。お染を斬ったか」
「いや、女でない。源三郎を斬った」
市之助もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。彼は寝衣《ねまき》の膝を立て直して又きいた。
「なぜ斬った。口論か」
「おれも短気、源三郎も短気、ゆるしてくれ」
果し合いの始末を聞かされて、市之助はいよいよ驚いた。
「お身と源三郎とが河原へ駈け出したら、お染はなぜ早くおれに教えてくれなんだか。しかしそれを今更いっても返らぬ。そこで半九郎、お身はこれからどうする積りだ」
「仇と名乗って討たれに来た。殺してくれ」
「弟の仇……見逃す法はない。ここで討つのは当然だが、おれが頼む、逃げてくれ」と、市之助は言った。「お身とおれは竹馬《ちくば》の友だ。源三郎とても同様で、互いに意趣も遺恨もあっての果し合いでない。いわば当座の行きがかりで、討つ者も討たるる者も詰まりは不時の災難だ。さっき弟が迎いに来た時に、おれが素直に戻れば何事もなかったものを……。思えばおれにも罪はある。今更お身を討ち果したとて、死んだ弟が返るでもない。おれは知らぬ振りをしているから、お身はどこへでも早く逃げろ。ここらにうろうろしていては詮議がむずかしい。京を離れたところへ身を隠してしまえ。おれはこれから河原へ行って、弟の死骸を始末して来る。そのあいだに支度しろ」
こう言い聞かせて市之助はすぐに寝衣をぬいだ。着物を着換えて袴を穿いて、大小を腰に差して、急いで表へ出て行った。
取り残された半九郎は、両手を膝において暫く考えていた。
自分を免《ゆる》してくれた市之助の料簡は、彼にもよく判っていた。しかしそれは市之助だけの料簡で、仲のいい朋輩を殺して置いてただそのままに逃げてしまうというのは、自分としては忍ばれないことであった。しょせん自分は逃れることの出来ない罪を背負っている以上、なまじいに逃げ隠れをして捕われるのは恥の上塗《うわぬ》りである。兄が弟の仇を討たぬというならば、自分はいさぎよく自滅するほかはない。半九郎は切腹と決心した。
初冬の夜もしだいに更《ふ》けて、清水寺《きよみずでら》の九つ(午後十二時)の鐘の音が水にひびいた。半九郎は仄暗《ほのぐら》い灯の前に坐って、自分の朋輩の血を染めた刃《やいば》に、更に自分の血を塗ろうとした。それが自分の罪を償《つぐの》う正当の手段であると考えた。
彼がその刀を把《と》り直した時に、屏風のかげから幽霊のような女の顔があらわれた。お染はいつの間にか忍んで来ていたのであった。
「お染。聞いていたのか」
お染はそこに泣き伏してしまった。
「市之助はおれに隠れろと言う。しかし半九郎にそんなうしろ暗いことは出来ぬ。正直に今ここで切腹する。若松屋のお染の客は人殺しとあすは世上《せじょう》に謳《うた》われて、お身も肩身が狭かろうが、これも因果《いんが》だ。堪忍してくれ」
「あの、わたしも一緒に死なして下さりませ」と、彼女は涙をすすりながら言った。
「いや、それは無分別。由《よし》ない義理を立てすごして、この半九郎に命までもくれようとは、親姉妹《おやきょうだい》の嘆きも思わぬか。おれには死ぬだけの罪がある。お前には何の係り合いもないことだ。知らぬていにして早く彼方《あっち》へゆけ」と、半九郎は小声で叱った。
叱られても彼女は動かなかった。不仕合せな女に生まれながら、自分はお前というものに取りすがって、今日までこうして生きていたのである。そのお前にいよいよ別れる日が近づいて、自分の心はとうから死んだも同様であった。日本じゅうに二人とない、頼もしい人に引き分かれて、これから先の長い勤め奉公をとても辛抱の出来るものではない。店出しの宵からお前の揚げ詰めで、ほかの客を迎えたことのないわたしは、どこまでもお前ひとりを夫《おっと》として、清い女の一生を送りたいと思っている。それを察して一緒に殺してくれと、彼女は男の膝の前に身を投げ出して泣いた。
半九郎も女の心を哀れに思った。彼も惨《いじ》らしいお染のからだを濁り江の暗い底に長く沈めて置きたくないので、重代の刀を手放しても、彼女を救いあげて親許へ送り帰してやりたいと思っていた。その志は空《くう》になって、しかもその刀で人を殺すような破滅に陥《おちい》った。こうなるからはいっそのこと、女を殺すのは却《かえ》って女を救うので、いわゆる慈悲の殺生《せっしょう》であるかも知れないと考えた。
そう思って、彼は自分の前に俯伏《うつぶ》している若い女の細く白いうなじを今更のようにじっ[#「じっ」に傍点]と眺めた。ふさふさと黒く光った美しい髪の毛を見つめた。今まで彼女を愛していたとはまた一種違った温かい感情が彼の胸にだんだん漲《みなぎ》って来て、総身の若い血潮が燃えあがるようにも感じられた。
半九郎がお染に対して、こうした不思議な感じを覚えたのは実に今夜が初めてであった。今夜の半九郎の眼に映ったお染は、遊女のお染ではなかった。清いおとめのお染であった。武士の妻としても恥かしからぬ一人の清いおとめであった。半九郎は言い知れない幸福を感じた。
「お前の心はよく判った。もう泣くな」と、半九郎は女の肩に手をかけて引き起した。
「あい」
お染はおとなしく顔をあげた。彼女の眼には涙の玉が美しく光っていた。
二人はその屍《かばね》を揚屋の座敷に横たえようとはしなかった。源三郎のあとを追って、屍を河原に晒《さら》そうともしなかった。いかなる人も遂にゆく鳥辺の山をかれらの墓と定めて、二人はそっと花菱をぬけ出した。
後の作者は二人が死《しに》にゆく姿をえがくが如くに形容して、お染に対しては「女《おんな》肌には白|無垢《むく》や上にむらさき藤の紋、中着《なかぎ》緋紗綾《ひざや》に黒繻子《くろじゅす》の帯、年は十七|初花《はつはな》の、雨にしおるる立姿《たちすがた》」と唄った。半九郎に対しては、「男も肌は白小袖にて、黒き綸子《りんず》に色浅黄うら」と説明した。
一種哀艶の調《しらべ》である。但しこれは少なくも六十余年の後、この唄の作者が住んでいた時代の姿で、この物語にあらわれている男と女との真実の姿ではない。
それでも私たちは「女肌には白無垢や」の唄に因《よ》って、二百余年来かもしなされて来た哀艶の気分をいつまでも打ち毀《こわ》したくない。この物語に二人の服装を一度も説明しなかったのはこれが為である。
底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
2000年6月14日公開
2008年10月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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