を帰してやると言ったが、市之助は花菱に酔い潰れて帰らなかった。その以来、源三郎はいよいよ半九郎を信用しなくなった。日ごろの親しみは頓《とみ》に薄らいで、彼は半九郎を兄の悪友と認めるようになった。
 その半九郎が早朝から訪ねて来たので、源三郎はこれから外出しようとするのを暫く見合せて注意ぶかい耳を引き立てていた。こういう見張り人がそばに控えているので、半九郎も少し言いそそくれたが、生一本《きいっぽん》な彼の性質として、自分の思っていることは直ぐに打ち出してしまいたかったので、彼は思い切って言った。
「さて市之助。遠慮なく頼みたいことがある」
「改まって何だ」
「半九郎は金が要《い》る。二百両の金を貸してくれぬか。といっても、お身も旅先でそれだけの貯えもあるまい。お身は京の刀屋に知るべがあると聞いている。おれの刀は相州《そうしゅう》物だ。その刀屋に相談して、二百両に換えてはくれまいか」
 市之助も少し眉を寄せた。
「お身が大事の刀を売りたい……。思いも寄らぬ頼みだが、その二百両の要《い》りみちは……」
 半九郎は源三郎を横目に見ながら言った。
「京の鶯《うぐいす》を買いたいのだ」
「京の鶯……。はて、お身にも似合わぬ風流なことだな」と、言いかけて彼もすぐに覚ったらしくうなずいた。「うむ。して、その鶯を江戸へ連れて行くのか」
「いや、籠《かご》から放してやればいい。鶯はおおかた古巣へ舞い戻るであろう」
 その謎は市之助にもよく判った。しかしそれは余り正直過ぎるように思われたので、彼は半九郎に注意するように言った。
「おれも鶯は大好きで、ゆく先ざきで鶯を聴いて歩く。鶯は美しい愛らしい小鳥だ。ことに京は鶯の名所であるから、おれも金に明かし、暇《ひま》に明かして、思うさまに鳴かして見たが、所詮《しょせん》は一時の興《きょう》に過ぎぬ。一羽の鳥になずんでは悪い。江戸へ帰ればまた江戸の鶯がある」
「勿論、おれもその鶯を江戸まで持って帰ろうとは思わぬが、鳴く音《ね》が余りに哀れに聞えるので、せめて籠から放してやりたいのだ。半九郎は人にも知られた意地張りだが、生まれつきから涙もろい男だ。ありあまる金を持った身でもなし、かつは旅先で工面《くめん》するあてもない。察してくれ」
 半九郎の性質は市之助もふだんから知り抜いていた。そうして、それが彼の美しいところでもあり、また彼の弱いところでもあることを知っていた。遊里《ゆうり》の歓楽を一時の興と心得ている市之助の眼から見れば、立派な侍が一人の売女に涙をかけて、多寡《たか》が半月やひと月の馴染みのために、家重代《いえじゅうだい》の刀を手放そうなどというのは余りに馬鹿ばかしくも思われた。彼は繰り返して涙もろい友達に忠告を試みた。
「して、半九郎。お身は全くその鶯に未練はないな」
「未練はない。くどくも言うようだが、あまりに哀れだから放してやりたい。ただそれだけのことだ」
「それならば猶更のこと。お身がその鶯にあくまでも未練が残って、買い取って我が物にしたいと言っても、おれは友達ずくで意見したい。ましてその鶯には未練も愛着《あいぢゃく》もなく、ただ買い取って放してやるだけに、武士《ぶし》が大切の刀を売るとは、あまりに分別が至らぬように思わるるぞ。なさけも善根《ぜんこん》も銘々の力に能《あた》うかぎりで済ませればよし、程を過ぎたら却《かえ》って身の禍《わざわ》いになる。この中《じゅう》のおれの行状から見たら、ひとに意見がましいことなど言われた義理ではないが、おれにはまたおれの料簡《りょうけん》がある。鶯はただ鳴くだけのことで、藪《やぶ》にあろうが籠《かご》にあろうが頓着《とんぢゃく》せぬ。花を眺め、鳥を聴くも、所詮は我れに一時の興があればよいので、その上のことまでを深く考えようとはせぬ。その上に考え詰めたら、心を痛むる、身を誤る。人間は息のあるうちに、ゆく先ざきで面白いことを仕尽くしたらそれでよい。どうだ、半九郎。もう一度よく思い直して見ろ」
「では、どうでも肯《き》いてくれぬか」
「肯かれぬ。また、肯かぬのがお身のためだ」
 相手がどうしても取り合わないので、半九郎は失望して帰った。帰る途中で、彼は市之助の意見をもう一度考えてみた。市之助の議論を彼はいちいち尤《もっと》もとは思わなかったが、籠から鶯を放してやるだけに、武士が家重代の刀を売る。たとい自分には何の疚《やま》しい心がないとしても、思いやりのない世間の人間はいろいろの評判を立てるに相違ない。菊地半九郎は売女《ばいじょ》にうつつをぬかして大小を手放したとただ一口《ひとくち》にいわれては、武士の面目にもかかわる。支配頭への聞えもある。なるほど市之助が承知してくれないのも無理はないかとも思われたので、彼は刀を売ることを躊躇した。
 こうなると、お染の顔を見るのが辛《つら》い。お染も自分の顔を見ると、よけいに悲しい思いをするかも知れない。いっそ出発するまでは彼女にもう逢うまいかと半九郎は思った。そうして、ひと晩は花菱に足をぬいてみたが、やはり一種の不安と憐れみとが彼を誘って、あくる日は花菱の座敷でお染の暗い顔と向かい合わせた。半九郎はその後もつづけてお染と逢っていた。
 十月にはいると、半九郎のからだも忙がしくなった。将軍はいよいよこの十日には出発と決まったので、供の者どもはその準備に毎日奔走しなければならなかった。
 その忙がしいひまを偸《ぬす》んで、ある者は京の土産を買い調えるのもあった。ある者は知るべのところへ暇乞《いとまご》いに廻るのもあった。神社や仏閣に参拝して守り符《ふだ》などを貰って来るのもあった。いろいろの買いがかりの勘定などをして歩くのもあった。それらの出這入《ではい》りで京の町は又ひとしきり混雑した。
 江戸に沢山《たくさん》の親類や縁者をもっていない半九郎は守り符や土産などを寄せ集めて歩く必要はなかったが、さすがに勤め向きの用事に追い廻されて祇園の酒に酔っている暇がなかった。市之助兄弟も忙がしい筈であった。しかも忙がしいことは弟に任せて、市之助は相変らず浮かれ歩いていた。
「もう二、三日で京も名残《なご》りだ。面白く騒げ、騒げ」
 それは七日の宵で、きょうは朝から時雨《しぐ》れかかっている初冬の一日を、市之助は花菱の座敷で飲み明かしているのであった。日が暮れてから半九郎も来た。約束したのではない、偶然に落ち合ったのであった。
「おお、半九郎来たか」
「お身はいつから来ている」
「ゆうべから居つづけだ」と、市之助はもう他愛なく酔いくずれていた。
「弟にまた叱らるるぞ」と、半九郎はにが笑いした。
「あいつ、腹を立って、きっと兄の悪口をさんざんに言っているであろう。困った奴だ」
 市之助も笑っていた。

     四

 半九郎を初めてここへ誘って来たのは市之助であったが、塒《ねぐら》を一つ場所に決めていない彼はいつも半九郎の連れではなかった。ことに過日《このあいだ》の鶯の話を聴かされてから、彼は半九郎のあまり正直過ぎるのを懸念するようになったので、ゆうべも彼を誘わずに自分一人で来ていると、あとから半九郎が丁度来合せたのである。
 もう二、三日というけれども、今夜が京の遊び納めであると市之助は思っていた。八日《ようか》九日《ここのか》の二日《ふつか》は出発前でいろいろの勤めがあるのは判り切っているので、今夜は思う存分に騒ぎ散らして帰ろうと、彼は羽目《はめ》をはずして浮かれていた。半九郎もお染に逢うのは今夜限りだと思っていた。
 もう泣いても笑っても仕方がないと、お染もきのう今日は諦めてしまった。いつも沈んだ顔ばかりを見せて男の心を暗い方へ引き摺って行くのは、これまでの恩となさけに対しても済まないことであると思ったので、彼女も今夜は努《つと》めて晴れやかな笑顔を作っていた。お花は無論に浮きうきしていた。今夜がいよいよのお別れであるというので、馴染みの女や仲居なども大勢寄って来て、座敷はいつもより華やかに浮き立った。
 内心はともかくも、お染の顔が今夜は晴れやかに見えたので、半九郎も少し安心した。安心すると共に、彼はふだんよりも多く飲んだ。ことに今夜は市之助という飲み相手があるので、彼はうかうか[#「うかうか」に傍点]と量をすごして、お染の柔かい膝《ひざ》を枕に寝ころんでしまった。
「半さま。御家来の衆が見えました」と、仲居のお雪が取次いで来た。
「八介《はちすけ》か。何の用か知らぬが、これへ来いと言え」と、半九郎は寝ころんだままで言った。
 若党の八介はお雪に案内されて来たが、満座の前では言い出しにくいと見えて、彼は主人を廊下へ呼び出そうとした。
「旦那さま。ちょっとここまで……」
「馬鹿め」と、半九郎はやはり頭をあげなかった。「用があるならここへ来い」
「は」と、八介はまだ躊躇していたが、やがて思い切って座敷へいざり込んで来た。
「用は大抵判っている。迎いに来たのか」と、半九郎は不興らしく言った。
「左様でござります」
 御用の道中であるから銘々の荷物は宿々《しゅくじゅく》の人足どもに担がせる。その混乱と間違いとを防ぐために、組ごとに荷物をひと纏めにして、その荷物にはまた銘々の荷札をつける。それを今夜じゅうにみな済ませて置けという支配頭からの達しが俄かに来た。八介一人では判らないこともあるから、ひとまず帰ってくれというのであった。
「うるさいな。あしたでもよかろうに……」
「でも、一度になっては混雑するから、今夜のうちに取りまとめて置けとのことでござります」
「市之助。お身は帰るか」と、半九郎は酔っている連れにきいた。
「弟が何とかするであろうよ」と、市之助は相変らず横着を極《き》めていた。
「よい弟を持って仕合せだ。おれはちょっと戻らなければなるまいか」
 半九郎はしぶしぶ起き上がって、八介と一緒に出ると、お染は角《かど》まで送って来た。
「お前さま。もうこれぎりでお戻りになりませぬかえ」
「いや、戻る。すぐまた戻って来る。待っておれ」
 酔っていても半九郎はしっかりした足取りで歩いた。宿所へ帰って、彼は八介に指図して忙がしそうに荷作りをした。さしたる荷物もないのであるが、それでも一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》ほどの暇を潰して、主人も家来もがっかりした。表では雨の音がはらはら[#「はらはら」に傍点]聞えた。
「旦那さま。降ってまいりました」
「降って来たか」
「昼から催しておりました。今のうちに降りましたら、お発ちの頃には小春|日和《びより》がつづくかも知れませぬ」
 道中はともかくも、今夜の雨を半九郎は邪魔だと思った。彼は落ち着かない心持ちで、すぐにまた表へ出ようとした。
「またお出掛けでござりますか」と、八介は暗い空を仰ぎながら言った。
 酔いは出る、からだは疲れる。半九郎はもうそこに寝ころんでしまいたかったが、彼の心はやはりお染の方へ引かれていった。これがふだんの時であったら、彼も自分の宿に眠って安らかに今夜一夜を過《すご》すことが出来たかも知れないが、祇園の酒も今夜かぎりだと思うと、半九郎はとても落ち着いていられなかった。
 彼は雨を冒《おか》して祇園へ引っ返して行った。そうして、運命の導くままに自分の生命《せいめい》を投げ出してしまったのであった。
 花菱の座敷には市之助がまだ浮かれ騒いでいた。よくも遊び疲れないものだと感心しながら、半九郎も再びそのまどいに入った。
「半九郎、また来たか。おれはさすがにもう堪まらぬ。お身が代って女子《おなご》どもの相手をしてくれ。頼む、頼む」
 今度は市之助がお花の膝を借りて横になってしまった。半九郎は入れかわってまた飲んだ。寡言《むくち》の彼も今夜は無器用な冗談などを時どきに言って、女どもに笑われた。
「あの、お客様が……」
 お雪が取次ぐひまもなしに、一人の若侍が足音あらくこの席へ踏み込んで来た。
「兄上、兄上」
 それが弟の源三郎であると知って、市之助は薄く眼をあいた。
「おお、源三郎か。何しにまいった」
「言わずとも知れたこと。お迎いにまいりまし
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