向いていろいろのことを考えつめていた。
ゆうべの客に今夜も逢えたというのが彼女は第一に嬉しかった。それと同時に、かの客がどうして今夜もここへ来たか、お染はその人の心を深く考えて見たかったのである。勿論、それには友達の附き合いという意味も含まれているであろうと想像した。酒さえ快《こころよ》く飲んでいれば、女なぞはどうでもいいと思っているのかも知れないと想像した。しかし昨夜の様子から推量《おしはか》ると、友達の附き合いとして酒を飲むことのほかに、何かの意味があるらしくも思われた。頼りない自分を憐れんで、今夜も呼んでくれたのではあるまいか――自分勝手ではあるが、お染はどうもそうであるらしいように解釈した。そうして、どうかそうであって呉《く》れればいいと胸のうちでひそかに祈っていた。
今夜は宵から薄く陰《くも》って、弱い稲妻が時どきに暗い空から走って来た。それが秋の夜らしい気分を誘って、酒を飲まないお染はなんだか肌寒いようにも思われた。
お花は酔って唄った。
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※[#歌記号、1−3−28]立つる錦木《にしきぎ》甲斐なく朽ちて、逢わで年経《としふ》る身ぞ辛き
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彼女は一座の耳を惹《ひ》きつけるほどの美しい清らかな声であった。それをじっ[#「じっ」に傍点]と聴いているうちに、お染は一種の寂しさがひしひしと狭い胸に迫って来た。その陰った眼が自分の男の眼に出逢うと、男も少し沈んだような顔をして、杯を下においていた。
その晩も四人は泊まって、一人は帰ることになった。帰るというのはやはりお染の客であった。お染はお雪を廊下へ呼び出して、恥かしそうに頼んだ。
「わたしのお客は今夜も帰ると仰しゃるそうな。なんとか引き止める法はないものか」
お雪も同意であった。お染の客はゆうべも花代を払っただけで綺麗に帰った。今夜もまたすぐに帰ろうとする。なんぼ相手が承知の上でも、それではあんまり傾城冥利《けいせいみょうり》に尽きるであろうと彼女も思った。もうひとつには、店出しをしたばかりでまだ一人の馴染みもないお染のために、ああいう頼もしそうな客を見付けてやりたいとも思ったので、お雪は快く承知した。
客は振り切って帰ろうとするのを、お雪は引き止めた。客扱いに馴れている手だれの彼女は、強情な男を、無理無体に引き戻して、お染が閨《ねや》の客にしてしまった。
その晩は夜半から冷たい雨がしとしと[#「しとしと」に傍点]と降り出して来た。お染は自分の客が菊地半九郎《きくちはんくろう》という侍で、新しい三代将軍の供をしてこのごろ上洛したものであることを初めて知った。お花の客が坂田市之助という男であることも、半九郎の口から正直に言い聞かされた。
お染も自分の身の上を男に打明けた。自分は六条に住んでいる与兵衛《よへえ》という米屋の娘で、商売の手違いから父母はことし十五の妹娘を連れて、裏家《うらや》へ逼塞《ひっそく》するようになり下がった。それが因果で自分は二百両という金《かね》の代《しろ》にここへ売られて来たのである。ゆうべは初めての店出しでお前さまに逢った。今夜も逢った。そうして、ほんとうの客になって貰った。しかし勤めの身は悲しいもので、あすはどういう客に逢おうも知れないと、彼女は枕紙《まくらがみ》を濡らして話した。
半九郎は暗い顔をして聴いていたが、やがて思い切って言った。
「よい。判った。心配するには及ばぬ。あしたからは夜も昼もおれが揚げ詰《づ》めにして、ほかの客の座敷へは出すまい」
「ありがとうござります」と、お染は手をあわせて拝《おが》んだ。
江戸の侍に嘘はなかった。半九郎はあくる日からお染を揚げ詰めにして、自分ひとりのものにしてしまった。店出しの初めから仕合せな客を取り当てたと、若松屋の主人も喜んだ。お雪も喜んだ。朋輩たちも羨《うらや》んだ。
坂田市之助も花菱へたびたび遊びに来た。しかし彼はお花のほかにも幾人かの馴染みの女をもっているらしく、方々の揚屋を浮かれ歩いていた。
「わたしの人にくらべると、半さまは情愛のふかい、正直一方のお人、お前と二人が睦まじい様子を見せられると、妬《ねた》ましいほどに羨まれる」と、お花は折りおりにお染をなぶった。なぶられて、お染はいつもあどけない顔を真紅《まっか》に染めていた。
半月あまりは夢のようにたった。十三夜は月が冴えていた。半九郎は五条に近い宿を出て、いつものように祇園へ足を向けてゆくと、昼のように明るい路端《みちばた》で一人の若侍に逢った。
「半九郎どのか」
「源三郎《げんざぶろう》、どこへゆく」と、半九郎は打ち解けてきいた。
「兄をたずねて……」
「何ぞ用か」
「毎日毎晩あそび暮らしていては勤め向きもおろそかになる。兄の放埒《ほうらつ》にも困り果てた」と、源三郎は苦々《にがにが》しそうに言った。「今夜もきっと柳町か祇園であろうよ」
「柳町や祇園をあさり歩いて、兄を見付けたら何とする」と、半九郎は笑いながら又きいた。
「見付け次第に引っ立てて帰る」
ことし十九の坂田源三郎は、兄の市之助とはまるで人間の違ったような律義《りちぎ》一方の若者であった。彼は兄のように小唄を歌うことを知らなかったが、武芸は兄よりも優れていた。彼は兄と一緒に上洛のお供に加わって来て、同じ宿に滞在しているのであった。
こうして同じ京の土を踏みながらも、兄は旅先という暢気《のんき》な気分で遊び暮らしていた。弟は主君のお供という料簡《りょうけん》でちっとも油断しなかった。こうして反《そ》りの合わない兄弟ふたりは、どっちも不思議に半九郎と親しい友達であった。自分よりも二つの年下であるので、半九郎は源三郎を弟のようにも思っていた。
「兄の放埒も悪かろうが、遊興の場所へ踏ん込んで無理に引っ立てて帰るはちっと穏当でない」と、半九郎はなだめるように言った。「まあ堪忍してやれ。兄も今夜は後《のち》の月見という風流であろう。あすになればきっと帰る」
「帰るであろうか」と、源三郎はまだ不得心《ふとくしん》らしい顔をしていた。
「おお、帰るようにおれが言ってやる」
うっかりと口をすべらせたのを、源三郎はすぐ聞きとがめた。
「おれが言ってやる。……では、兄の居どころをお身は知っているか。お身もこれからそこへ行くのか」
半九郎も少し行き詰まった。その慌《あわ》てた眼色を覚《さと》られまいと、彼はわざと大きく笑った。
「まあ、むずかしく詮議するな。行くと行かぬは別として、おれは兄の居どころを知っている。たずね出してやるから、おとなしく待っておれ」
「ふうむ。お身もか」
卑しむような眼をして、源三郎は半九郎の顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。半九郎がこのごろ祇園に入りびたっていることを彼も薄々知っていた。ことに今の口振りで、兄も半九郎もどうやら一つ穴の貉《むじな》であるらしいことを発見した彼は、日ごろ親しい半九郎に対して、俄《にわ》かに憎悪と軽蔑との念が湧いて来た。それでも自分自身が汚《けが》れた色町へ踏み込むよりは、いっそ半九郎に頼んだ方が優《ま》しであろうと思い返して、彼は努めて丁寧に言った。
「では、頼む。兄によく意見して下され」
「承知した」
二人は月の下で別れた。
「はは、源三郎め、覚ったな」と、半九郎は歩きながらほほえんだ。
彼の眼から見たらば、兄もおれも同じ放埒者《ほうらつもの》と見えるかも知れない。誰が眼にも、うわべから覗《のぞ》けばそう見えるであろう。しかし市之助とおれとは性根が違うぞと、半九郎は肚《はら》の中で笑っていた。市之助は行く先ざきで面白いことをすればいい、彼はそれで満足しているのである。おれはそうでない。おれは市之助のような放蕩者でない。おれはお染のほかに世間の女をあさろうとはしていない。同じ色町の酒を甞《な》めていながらも、市之助とおれとを一緒に見たら大きな間違いであるぞと、半九郎は浅黄に晴れた空の上に、大きく澄んで輝く月のひかりを仰ぎながら、お染のいる祇園町の方へ大股に歩いて行った。
三
半九郎とお染とが引き分けられなければならない時節が来た。
今年の秋もあわただしく暮れかかって、九月の暦《こよみ》も終りに近づいた。鴨川の水にも痩せが見えて、河原の柳は朝寒《あささむ》に身ぶるいしながら白く衰えた葉を毎日振るい落した。そのわびしい秋の姿をお染は朝に夕に悲しく眺めた。九月の末か、十月の初めには将軍が京を立って江戸へ帰る――それは前から知れ切ったことであったが、その期日が次第に迫って来るに連れて、彼女は自分の命が一日ごとに削《けず》られてゆくようにも思われた。
その沈んだ愁《うれ》い顔を見るにつけて、半九郎もいよいよ物の哀れを誘い出された。彼はある夜しみじみとお染に話した。
「将軍家が江戸表へ御下向《ごげこう》のことは、今朝《こんちょう》支配|頭《がしら》から改めて触れ渡された。この上はしょせん長逗留は相成るまい。遅くも来月の十日頃までには、一同京地を引き払うことになるであろう。お前に逢うのも今しばらくの間だ。昼夜揚げ詰めとはいいながら、馴染んでから丸ひと月に成るや成らずでさほどの深い仲でもないが、恋や情けはさておいて、まだ廓《さと》なれないお前が不憫《ふびん》さに、暇さえあればここへ来て、及ばぬながら力にもなってやったが、侍は御奉公が大切、お供にはずれていつまでもここに逗留は思いも寄らぬことだ。察してくれ」
勿論それに対して、お染は何とも言いようはなかった。無理に引き止めることは出来なかった。たとい引き止めても、男が止まる筈がないのは、彼女もよく承知していた。半九郎が今まで自分を優しく庇《かば》ってくれたのは、世にありふれた色恋とは違って、弱い者を憐れむという涙もろい江戸かたぎから生み出されていることは、彼女もかねて知っていた。まして将軍家の供をして、江戸の侍が江戸へ帰るのは当然のことである。彼女は自分を振り捨ててゆく男を微塵《みじん》も怨む気はなかった。
怨むのではない。ただ、悲しいのである。心細いのである。店出し以来、たった一人の半九郎に取りすがって、今日まで何の苦も知らずに生きていたお染は、さてこの後《のち》どうするか。彼女は眼の前に拡がっている大きい闇の奥をすかして見る怖ろしさに堪えられなかった。
「また泣くか。初めて逢った夜にもお前はそんな泣き顔をしていたが、その時から見ると又やつれたぞ。煩《わずら》わぬようにしろ」
「いっそ煩うて死にとうござります」
言ううちにも、止めどもなしに突っかけて溢れ出る涙は、白粉の濃い彼女の頬に幾筋の糸を引いて流れた。半九郎は痛ましそうに眉を皺《しわ》めて言った。
「今の若い身で死んでどうする。両親の悲しみ、妹の嘆き、それを思いやったら仮りにもそのようなことは言われまい。一日も早く勤めを引いて、親許へ帰って孝行せい」
「一日も早くというて、それが今年か来年のことか。ここの年季《ねんき》は丸六年、わたしのような孱弱《かよわ》い者は、いつ煩ろうていつ死ぬやら」
「はて、不吉な。気の弱いにも程がある。ほかの女どものように浮きうきして、晴れやかな心持ちで面白そうに世を送れ。これから五年六年といえば長いようだが、過ぎてしまうのは夢のうちだ」と、半九郎は諭《さと》すように言い聞かせた。
ひとには面白そうに見えるかも知れないが、およそここらに勤めている人に涙の種のない者はない。現にあの市さまの相方のお花女郎も、親の上、わが身の上にいろいろの苦労がある。まして自分のように胸の狭いものは、こののち一日でも面白そうに暮らされよう筈がない。店出しから今日までの短い月日が極楽、この先の長い月日は地獄の暗闇と、自分ももうあきらめているとお染はまた泣きつづけた。
困ったものだと半九郎も思いわずらった。彼はこのいじらしい女をどう処分しようかといろいろに迷った末に、あくる朝、坂田市之助の宿所をたずねると、市之助はめずらしく宿にいた。源三郎もいた。
過日《このあいだ》の晩、半九郎は途中で源三郎に約束して、あしたはきっと兄
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