しいか」と、強い声はやがて優し味を含んできこえた。「お前の名は何という」
「染と申します」
「お染か。して、今夜の客の誰かに馴染みか」
「いいえ」と、お染は怖《こわ》ごわ答えた。「わたしは今夜が店出しでござります」
「突き出しか」と、男はいよいよ憫《あわ》れむように言った。「うむ、それで泣くか。無理もない。今夜の花はおれが払ってやる。すぐに家《うち》へ帰れ」
涙がこぼれるほどに有難いとは思ったが、お染はその親切な指図にしたがう訳にはいかなかった。識《し》らない客に花代《はなだい》を払わして、そのまま自分の家へ帰ってゆけば、主人に叱られるのは判り切っているので、彼女はその返答に躊躇《ちゅうちょ》していると、相手はそうした事情をよく知らないらしかった。
「お前は勤めの身でないか。花代さえ滞《とどこお》りなく貰って行ったら、誰も不足をいう者はあるまい。まだほかにむずかしい掟《おきて》でもあるか」
「主人に叱られます」
「判らぬな。主人がなぜ叱る」
「江戸のお客さまを粗末にしたとて……」
男は悼《いた》ましそうに溜め息をついた。
「それで叱るか。よい、そんならお前が叱られぬように、おれが仲
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