に溜まっていた。胸も切《せつ》なくなってきた。こめかみも痛んで来た。悪寒《さむけ》もして来た。彼女はもう堪《たま》らなくなって、消えるように座敷からその姿を隠してしまった。
八月ももう末の夜で、宵々《よいよい》ごとに薄れてゆく天《あま》の河の影が高く空に淡《あわ》く流れていた。すすり泣きをするような溝川の音にまじって、蛙《かわず》は寂しく鳴きつづけていた。
「これ、何を泣く」
不意に声をかけられて、お染ははっ[#「はっ」に傍点]とした。泣き顔を拭きながら見返ると、自分のうしろに笑いながら突っ立っている男があった。
「泣くほど悲しいことがあれば、おれが力になってやる。話せ」
お染は身をすくめて黙っていると、男はかさねて言った。
「いや、怖がるな。叱るのでない。何が悲しい、訳をいえ」
その訳をあからさまに言いにくいので、お染はやはり黙っていた。廊下に洩れて来る灯の影がここまでは届かないので、男の容形《なりかたち》はよく判らなかったが、それが江戸の侍であることは、強いはっきりした関東弁で知られた。お染は彼を今夜の客の一人と知って、いよいよ怖ろしいように思われた。
「座敷を勤めるのが悲
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