わず起ち上がって源三郎の袂《たもと》をとらえた。
「半さまもあのように言うてござれば、まあ、まあ、お待ちなされませ」
「ええ、うるさい。退《の》いておれ」
 源三郎は相手をよくも見定めないで、腹立ちまぎれに突き退けると、かよわいお染は跳ね飛ばされたようによろめいて、そこにある膳の上に倒れかかると、酒も肴も一度に飛び散った。半九郎もむっ[#「むっ」に傍点]とした。
「やい、源三郎。年下の者と思ってよいほどにあしらっていれば、言いたい三昧《ざんまい》の悪口、仕たい三昧の狼藉、もう堪忍がならぬぞよ。素直に手をさげて詫びて帰ればよし、さもなくば、おのれの襟髪を引っつかんで、狗《いぬ》ころのように門端《かどばた》へ投げ出すぞ」
 彼も生まれつきは短気な男であった。しかも酒には酔っていた。それでも普段から自分の弟のように思っている源三郎に対して、今まで出来るだけの堪忍をしていたのであるが、眼の前で自分の女を手あらく投げられた、自分の膳を引っくり返された。彼はもう料簡が出来なくなって、大きい声で相手を叱りつけたのである。源三郎も行きがかりで彼に無礼を詫びようとはしなかった。
「はは、そのような嚇《おど》しを怖がる源三郎でない。夜昼となしに兄を誘い出して、あたら侍を腐らせた悪い友達に、何の科《とが》で詫びようか。江戸の侍の面汚《つらよご》しめ。そっちから詫びをせねば堪忍ならぬわ」
「なに、おのれはこの半九郎を江戸の侍の面汚しと言うたな。その子細《しさい》を申せ」
「それを改めて問うことか。御用を怠って遊里に入りびたる奴、それが武士の手本になるか。武士の面汚しと申したに不思議があるか」
「武士の面汚し、相違ないな」
「おお、幾たびでも言って聞かせる。菊地半九郎は武士の面汚し、恥さらし、武士の風上には置かれぬ奴だ」
 半九郎の眼の色は変った。
「おお、よく申した。おのれも武士に向ってそれほどのことを言うからは、相当の覚悟があろうな」
「念には及ばぬ。武士にはいつでも覚悟がある」
 半九郎は刀をとって突っ立った。
「問答|無益《むやく》だ。源三郎、河原へ来い」
「むむ」
 源三郎も負けずに睨み返した。武士と武士とが押っ取り刀で河原へゆく――それが真剣の果し合いであることは、この時代の習いで誰も知っているので、お染は顔の色を変えた。彼女は転げるように二人の侍の間へ割って入った。
「なんぼお侍衆じゃというて、些細《ささい》なことから言い募《つの》って真剣の勝負とは、あまりに御短慮でござります。これ、おがみます、頼みます。どうぞもう一度分別して、仲直りをして下さりませ」
 拝《おが》みまわる女を源三郎はまた蹴倒した。
「女がとめるを幸いに、言い出した勝負をやめるか。卑怯者め」
「何の……」と、半九郎は哮《たけ》った。「そう言うおのれこそ逃ぐるなよ」
 彼は縁先から庭へ飛び降りると、源三郎もつづいて駈け降りた。
 武士と武士との果し合いを、ここらの女どもがどう取り鎮めるすべもないので、お染は息を呑み込んで二人のうしろ影を見送っているばかりであったが、どう考えても落ち着いていられないので、彼女は白い脛《はぎ》にからみつく長い裳《すそ》を引き揚げながら、同じ庭口から二人のあとを追って行った。
 小夜時雨《さよしぐれ》、それはいつの間にか通り過ぎて、薄い月が夢のように鴨川の水を照らしていた。

     六

 素足で河原を踏んでゆく女の足は遅かった。お染は息を切って駈けた。薄月と水明りとに照らされた河原には、二つの刀の影が水に跳《はね》る魚の背のように光っていた。それを遠目に見ていながら、お染はなかなか近寄ることが出来なかった。
 二人の刀は入り乱れて、二つの人影は解けてもつれた。お染がだんだん近づくに連れて、鍔《つば》の音までが手に取るように聞えた。と思ううちに、一つの影はたちまち倒れた。一つの影は乗りかかってまた撃ち込んだ。勝負はもう決まったらしいので、お染ははっ[#「はっ」に傍点]と胸が跳《おど》った。彼女は幾たびかつまずきながらようように駈け寄ると、その勝利者はたしかに半九郎と判った。
「半さま」と、彼女は思わず声をかけた。
「お染か」と、半九郎は振り向いた。
「して、相手のお侍は……」
「この通りだ」
 半九郎は血刀で指さした。女のおびえた眼にはよく判らなかったが、源三郎は肩と腰のあたりを斬られているらしく、河原の小石を枕にして俯向きに倒れていた。そのむごたらしい血みどろの姿を見て、お染はぞっ[#「ぞっ」に傍点]と身の毛が立った。彼女は膝のゆるんだ人のように顫《ふる》えながらそこにべったりと坐ってしまった。
 元和《げんな》の大坂落城から僅か十年あまりで、血の匂いに馴れている侍は、自分の前に横たわっている敵の死骸に眼もくれないで、しずかに川の水を掬《
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