らず横着を極《き》めていた。
「よい弟を持って仕合せだ。おれはちょっと戻らなければなるまいか」
 半九郎はしぶしぶ起き上がって、八介と一緒に出ると、お染は角《かど》まで送って来た。
「お前さま。もうこれぎりでお戻りになりませぬかえ」
「いや、戻る。すぐまた戻って来る。待っておれ」
 酔っていても半九郎はしっかりした足取りで歩いた。宿所へ帰って、彼は八介に指図して忙がしそうに荷作りをした。さしたる荷物もないのであるが、それでも一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》ほどの暇を潰して、主人も家来もがっかりした。表では雨の音がはらはら[#「はらはら」に傍点]聞えた。
「旦那さま。降ってまいりました」
「降って来たか」
「昼から催しておりました。今のうちに降りましたら、お発ちの頃には小春|日和《びより》がつづくかも知れませぬ」
 道中はともかくも、今夜の雨を半九郎は邪魔だと思った。彼は落ち着かない心持ちで、すぐにまた表へ出ようとした。
「またお出掛けでござりますか」と、八介は暗い空を仰ぎながら言った。
 酔いは出る、からだは疲れる。半九郎はもうそこに寝ころんでしまいたかったが、彼の心はやはりお染の方へ引かれていった。これがふだんの時であったら、彼も自分の宿に眠って安らかに今夜一夜を過《すご》すことが出来たかも知れないが、祇園の酒も今夜かぎりだと思うと、半九郎はとても落ち着いていられなかった。
 彼は雨を冒《おか》して祇園へ引っ返して行った。そうして、運命の導くままに自分の生命《せいめい》を投げ出してしまったのであった。
 花菱の座敷には市之助がまだ浮かれ騒いでいた。よくも遊び疲れないものだと感心しながら、半九郎も再びそのまどいに入った。
「半九郎、また来たか。おれはさすがにもう堪まらぬ。お身が代って女子《おなご》どもの相手をしてくれ。頼む、頼む」
 今度は市之助がお花の膝を借りて横になってしまった。半九郎は入れかわってまた飲んだ。寡言《むくち》の彼も今夜は無器用な冗談などを時どきに言って、女どもに笑われた。
「あの、お客様が……」
 お雪が取次ぐひまもなしに、一人の若侍が足音あらくこの席へ踏み込んで来た。
「兄上、兄上」
 それが弟の源三郎であると知って、市之助は薄く眼をあいた。
「おお、源三郎か。何しにまいった」
「言わずとも知れたこと。お迎いにまいりました」
「出発の荷作りならよいように頼むぞ」
「わたくしには出来ませぬ」
 同じ迎いでも、これはさっきの若党とは一つにならなかった。血気の彼は居丈高《いたけだか》になって兄に迫った。
「荷作りのこと御承知なら、なぜ早くにお戻り下されぬ。兄弟二人が沢山の荷物、わたくし一人《いちにん》にその取りまとめがなりましょうか。積もって見ても知れているものを……。さあ、直ぐにお起《た》ち下され」
 彼は寝ころんでいる兄の腕を掴んで、力任せに引摺り起そうとするので、膝をかしているお花は見兼ねて支《ささ》えた。
「まあ、そのように手暴《てあら》くせずと……。市さまはこの通りに酔うている。連れて帰ってもお役に立つまい。お前ひとりでよいように……」
「それがなるほどなら、かようなところへわざわざ押しかけてはまいらぬ。じゃらけた女どもがいらぬ差し出口。控えておれ」
 武者苦者腹《むしゃくしゃばら》の八つ当りに、源三郎は叱りつけた。叱られてもお花は驚かなかった。彼女は白い歯を見せながら、なめらかな京弁でこの若い侍をなぶった。
「お前は市さまの弟御《おととご》そうな。いつもいつも親の仇でも尋ねるような顔付きは、若いお人にはめずらしい。ちっと兄《あに》さまを見習うて、お前も粋《すい》にならしゃんせ。もう近いうちにお下りなら、江戸への土産によい女郎衆をお世話しよ。京の女郎と大仏餅とは、眺めたばかりでは旨味《うまみ》の知れぬものじゃ。噛みしめて味わう気があるなら、お前も若いお侍、一夜の附合いで登り詰める心中者《しんじゅうもの》がないとも限らぬ。兄嫁のわたしが意見じゃ。一座になって面白う遊ばんせ」
「ええ、つべこべ[#「つべこべ」に傍点]とさえずる女め、おのれら売女の分際で、武士に向って仮りにも兄嫁呼ばわり、戯《たわむ》れとて容赦せぬぞ」
 彼は扇をとり直して、女の白い頬をひと打ちという権幕に、そばにいる女どもも、おどろいてさえぎった。自分の頭の上でこんな捫着《もんちゃく》を始められては、市之助ももう打棄《うっちゃ》って置かれなくなった。彼はよんどころなく起き直った。
「源三郎、静まらぬか。ここを何処《どこ》だと思っている」
 満座の手前、兄もこう叱るよりほかはなかったが、それがいよいよ弟の不平を募らせて、源三郎は更に兄の方へ膝を捻《ね》じ向けた。
「それは手前よりおたずね申すこと。兄上こそここを何処だ
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