るのが辛《つら》い。お染も自分の顔を見ると、よけいに悲しい思いをするかも知れない。いっそ出発するまでは彼女にもう逢うまいかと半九郎は思った。そうして、ひと晩は花菱に足をぬいてみたが、やはり一種の不安と憐れみとが彼を誘って、あくる日は花菱の座敷でお染の暗い顔と向かい合わせた。半九郎はその後もつづけてお染と逢っていた。
 十月にはいると、半九郎のからだも忙がしくなった。将軍はいよいよこの十日には出発と決まったので、供の者どもはその準備に毎日奔走しなければならなかった。
 その忙がしいひまを偸《ぬす》んで、ある者は京の土産を買い調えるのもあった。ある者は知るべのところへ暇乞《いとまご》いに廻るのもあった。神社や仏閣に参拝して守り符《ふだ》などを貰って来るのもあった。いろいろの買いがかりの勘定などをして歩くのもあった。それらの出這入《ではい》りで京の町は又ひとしきり混雑した。
 江戸に沢山《たくさん》の親類や縁者をもっていない半九郎は守り符や土産などを寄せ集めて歩く必要はなかったが、さすがに勤め向きの用事に追い廻されて祇園の酒に酔っている暇がなかった。市之助兄弟も忙がしい筈であった。しかも忙がしいことは弟に任せて、市之助は相変らず浮かれ歩いていた。
「もう二、三日で京も名残《なご》りだ。面白く騒げ、騒げ」
 それは七日の宵で、きょうは朝から時雨《しぐ》れかかっている初冬の一日を、市之助は花菱の座敷で飲み明かしているのであった。日が暮れてから半九郎も来た。約束したのではない、偶然に落ち合ったのであった。
「おお、半九郎来たか」
「お身はいつから来ている」
「ゆうべから居つづけだ」と、市之助はもう他愛なく酔いくずれていた。
「弟にまた叱らるるぞ」と、半九郎はにが笑いした。
「あいつ、腹を立って、きっと兄の悪口をさんざんに言っているであろう。困った奴だ」
 市之助も笑っていた。

     四

 半九郎を初めてここへ誘って来たのは市之助であったが、塒《ねぐら》を一つ場所に決めていない彼はいつも半九郎の連れではなかった。ことに過日《このあいだ》の鶯の話を聴かされてから、彼は半九郎のあまり正直過ぎるのを懸念するようになったので、ゆうべも彼を誘わずに自分一人で来ていると、あとから半九郎が丁度来合せたのである。
 もう二、三日というけれども、今夜が京の遊び納めであると市之助は思っていた。八日《ようか》九日《ここのか》の二日《ふつか》は出発前でいろいろの勤めがあるのは判り切っているので、今夜は思う存分に騒ぎ散らして帰ろうと、彼は羽目《はめ》をはずして浮かれていた。半九郎もお染に逢うのは今夜限りだと思っていた。
 もう泣いても笑っても仕方がないと、お染もきのう今日は諦めてしまった。いつも沈んだ顔ばかりを見せて男の心を暗い方へ引き摺って行くのは、これまでの恩となさけに対しても済まないことであると思ったので、彼女も今夜は努《つと》めて晴れやかな笑顔を作っていた。お花は無論に浮きうきしていた。今夜がいよいよのお別れであるというので、馴染みの女や仲居なども大勢寄って来て、座敷はいつもより華やかに浮き立った。
 内心はともかくも、お染の顔が今夜は晴れやかに見えたので、半九郎も少し安心した。安心すると共に、彼はふだんよりも多く飲んだ。ことに今夜は市之助という飲み相手があるので、彼はうかうか[#「うかうか」に傍点]と量をすごして、お染の柔かい膝《ひざ》を枕に寝ころんでしまった。
「半さま。御家来の衆が見えました」と、仲居のお雪が取次いで来た。
「八介《はちすけ》か。何の用か知らぬが、これへ来いと言え」と、半九郎は寝ころんだままで言った。
 若党の八介はお雪に案内されて来たが、満座の前では言い出しにくいと見えて、彼は主人を廊下へ呼び出そうとした。
「旦那さま。ちょっとここまで……」
「馬鹿め」と、半九郎はやはり頭をあげなかった。「用があるならここへ来い」
「は」と、八介はまだ躊躇していたが、やがて思い切って座敷へいざり込んで来た。
「用は大抵判っている。迎いに来たのか」と、半九郎は不興らしく言った。
「左様でござります」
 御用の道中であるから銘々の荷物は宿々《しゅくじゅく》の人足どもに担がせる。その混乱と間違いとを防ぐために、組ごとに荷物をひと纏めにして、その荷物にはまた銘々の荷札をつける。それを今夜じゅうにみな済ませて置けという支配頭からの達しが俄かに来た。八介一人では判らないこともあるから、ひとまず帰ってくれというのであった。
「うるさいな。あしたでもよかろうに……」
「でも、一度になっては混雑するから、今夜のうちに取りまとめて置けとのことでござります」
「市之助。お身は帰るか」と、半九郎は酔っている連れにきいた。
「弟が何とかするであろうよ」と、市之助は相変
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