合せな女に生まれながら、自分はお前というものに取りすがって、今日までこうして生きていたのである。そのお前にいよいよ別れる日が近づいて、自分の心はとうから死んだも同様であった。日本じゅうに二人とない、頼もしい人に引き分かれて、これから先の長い勤め奉公をとても辛抱の出来るものではない。店出しの宵からお前の揚げ詰めで、ほかの客を迎えたことのないわたしは、どこまでもお前ひとりを夫《おっと》として、清い女の一生を送りたいと思っている。それを察して一緒に殺してくれと、彼女は男の膝の前に身を投げ出して泣いた。
 半九郎も女の心を哀れに思った。彼も惨《いじ》らしいお染のからだを濁り江の暗い底に長く沈めて置きたくないので、重代の刀を手放しても、彼女を救いあげて親許へ送り帰してやりたいと思っていた。その志は空《くう》になって、しかもその刀で人を殺すような破滅に陥《おちい》った。こうなるからはいっそのこと、女を殺すのは却《かえ》って女を救うので、いわゆる慈悲の殺生《せっしょう》であるかも知れないと考えた。
 そう思って、彼は自分の前に俯伏《うつぶ》している若い女の細く白いうなじを今更のようにじっ[#「じっ」に傍点]と眺めた。ふさふさと黒く光った美しい髪の毛を見つめた。今まで彼女を愛していたとはまた一種違った温かい感情が彼の胸にだんだん漲《みなぎ》って来て、総身の若い血潮が燃えあがるようにも感じられた。
 半九郎がお染に対して、こうした不思議な感じを覚えたのは実に今夜が初めてであった。今夜の半九郎の眼に映ったお染は、遊女のお染ではなかった。清いおとめのお染であった。武士の妻としても恥かしからぬ一人の清いおとめであった。半九郎は言い知れない幸福を感じた。
「お前の心はよく判った。もう泣くな」と、半九郎は女の肩に手をかけて引き起した。
「あい」
 お染はおとなしく顔をあげた。彼女の眼には涙の玉が美しく光っていた。

 二人はその屍《かばね》を揚屋の座敷に横たえようとはしなかった。源三郎のあとを追って、屍を河原に晒《さら》そうともしなかった。いかなる人も遂にゆく鳥辺の山をかれらの墓と定めて、二人はそっと花菱をぬけ出した。
 後の作者は二人が死《しに》にゆく姿をえがくが如くに形容して、お染に対しては「女《おんな》肌には白|無垢《むく》や上にむらさき藤の紋、中着《なかぎ》緋紗綾《ひざや》に黒繻子《く
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