》り付けられたりするので、手の着けようがない。弓や鉄砲で撃っても、矢玉はみな跳ねかえされて地に落ちてしまうのである。
しかも昔からの言い伝えで、毛人を追い攘《はら》うには一つの方法がある。それは手を拍《う》って、大きな声で囃《はや》し立てるのである。
「長城を築く、長城を築く」
その声を聞くと、かれらは狼狽して山奥へ逃げ込むという。
新しく来た役人などは、最初はそれを信じないが、その実際を見るに及んで、初めて成程と合点《がてん》するそうである。
長城を築く――毛人らが何故《なぜ》それを恐れるかというと、かれらはその昔、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》が万里の長城を築いたときに駆り出された役夫《えきふ》である。かれらはその工事の苦役《くえき》に堪えかねて、同盟脱走してこの山中に逃げ籠ったが、歳久しゅうして死なず、遂にかかる怪物となったのであって、かれらは今に至るも築城工事に駆り出されることを深く恐れているらしく、人に逢えば長城はもう出来あがってしまったかと訊《き》く。その弱味に付け込んで、さあ長城を築くぞと囃し立てると、かれらはびっくり敗亡して、たちまちに姿を隠すのであると伝えられている。
秦代の法令がいかに厳酷であったかは、これで想いやられる。
帰安の魚怪
明《みん》代のことである。帰安《きあん》県の知県《ちけん》なにがしが赴任してから半年ほどの後、ある夜その妻と同寝していると、夜ふけてその門を叩く者があった。知県はみずから起きて出たが、暫くして帰って来た。
「いや、人が来たのではない。風が門を揺すったのであった」
そう言って彼は再び寝床に就いた。妻も別に疑わなかった。その後、帰安の一県は大いに治まって、獄を断じ、訴《うった》えを捌《さば》くこと、あたかも神《しん》のごとくであるといって、県民はしきりに知県の功績を賞讃した。
それからまた数年の後である。有名の道士|張天師《ちょうてんし》が帰安県を通過したが、知県はあえて出迎えをしなかった。
「この県には妖気がある」と、張天師は眉をひそめた。そうして、知県の妻を呼んで聞きただした。
「お前は今から数年前の何月何日の夜に、門を叩かれたことを覚えているか」
「おぼえて居ります」
「現在の夫《おっと》はまことの夫ではない。年を経たる黒魚《こくぎょ》(鱧《はも》の種類)の精である。おまえの夫はかの夜すでに黒魚のために食われてしまったのであるぞ」
妻は大いにおどろいて、なにとぞ夫のために仇を報いてくだされと、天師にすがって嘆いた。張天師は壇に登って法をおこなうと、果たして長さ数丈ともいうべき大きい黒魚が、正体をあらわして壇の前にひれ伏した。
「なんじの罪は斬《ざん》に当る」と、天師はおごそかに言い渡した。「しかし知県に化けているあいだにすこぶる善政をおこなっているから、特になんじの死をゆるしてやるぞ」
天師は大きい甕《かめ》のなかにかの魚を押し籠めて、神符をもってその口を封じ、県衙《けんが》の土中に埋めてしまった。
そのときに、魚は甕のなかからしきりに哀れみを乞うと、天師はまた言い渡した。
「今は赦《ゆる》されぬ。おれが再びここを通るときに放してやる」
張天師はその後ふたたび帰安県を通らなかった。
狗熊
清《しん》の乾隆《けんりゅう》二十六年のことである。虎※[#「亡+おおざと」、第3水準1−92−61]《こきゅう》に乞食があって一頭の狗熊《くゆう》を養っていた。熊の大きさは川馬《せんば》のごとくで、箭《や》のような毛が森立している。
この熊の不思議は、物をいうことこそ出来ないが、筆を執って能く字をかき、よく詩を作るのである。往来の人が一銭をあたえれば、飼いぬしの乞食がその熊を見せてくれる。さらに百銭をあたえて白紙をわたせば、飼い主は彼に命じて唐詩一首を書かせてくれる。まことに不思議の芸であった。
ある日、飼い主が外出して、獣《けもの》だけ独り残っているところへ、ある人が行って例のごとくに一枚の紙をあたえると、熊は詩を書かないで、思いも寄らないことを書いた。
自分は長沙《ちょうさ》の人で、姓は金《きん》、名は汝利《じょり》というものである。若いときにこの乞食に拐引《かどわか》されて、まず唖になる薬を飲まされたので、物をいうことが出来なくなった。その家には一頭の狗熊が飼ってあって、自分を赤裸にしてそれと一緒に生活させ、それから細い針を用いて自分の全身を隙間なく突き刺して、熱血淋漓たる時、一方の狗熊を殺してその生皮《なまかわ》を剥ぎ、すぐに自分の肌の上を包んだので、人の生き血と熊の生き血とが一つに粘《ねば》り着いて、皮は再び剥がれることなく、自分はそのままの狗熊になってしまった。それを鉄の鎖につないで、こうして芸を売らせているので、今日《こんにち》までにすでに幾万貫の銭を儲けたであろう。何をいうにも口を利くことが出来ないので、おめおめと彼に引き廻されているのである。
これを書き終って、熊はわが口を指さして、血の涙を雨のごとくに流した。
観るひと大いにおどろいて、その書いたものを証拠に訴え出ると、飼い主の乞食はすぐに捕われて、すべてその通りであると白状したので、かれは立ちどころに杖殺され、狗熊の金汝利は長沙の故郷へ送り還された。
人魚
著者の甥の致華《ちか》という者が淮南《わいなん》の分司となって、四川《しせん》の※[#「くさかんむり/(止+(自/儿)+氾のつくり)/夂」、312−2]州《きしゅう》城を過ぎると、往来の人びとが何か気ちがいのように騒ぎ立っている。その子細《しさい》をきくと、或る村民の妻|徐氏《じょし》というのは平生から非常に夫婦仲がよかったが、昨夜も夫とおなじ床に眠って、けさ早く起きると、彼女のすがたは著るしく変っていた。
徐氏の顔や髪や肌の色はすべて元のごとくであるが、その下半身がいつか魚に変ってしまったのである。乳から下には鱗《うろこ》が生えてなめらかになまぐさく、普通の魚と同様であるので、夫もただ驚くばかりで、どうする術《すべ》も知らなかった。妻は泣いて語った。
「ゆうべ寝る時分には別に何事もなく、ただ下半身がむず痒《かゆ》いので、それを掻くとからだの皮が次第に逆立って来たようですから、おそらく痺癬《ひぜん》でも出来たのだろうかと思っていました。すると、五更《ごこう》ののちから両脚が自然に食っ付いてしまって、もう伸ばすことも縮めることも出来なくなりました。撫でてみると、いつの間にか魚の尾になっているのです。まあ、どうしたらいいでしょう」
夫婦はただ抱き合って泣くばかりであるという。
致華はその話を聞いて、試みに供の者を走らせて実否《じっぷ》を見とどけさせると、果たしてそれは事実であると判った。但し致華は官用の旅程を急ぐ身の上で、そのまま出発してしまったために、人魚ともいうべき徐氏をどう処分したか、彼女を魚として河へ放すことにしたか、あるいは人として家に養って置くことにしたか、それらの結末を知ることが出来なかったそうである。
金鉱の妖霊
乾※[#「鹿/几」、313−3]子《かんきし》というのは、人ではない。人の死骸の化《け》したるもの、すなわち前に書いた僵尸《きょうし》のたぐいである。雲南地方には金鉱が多い。その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。それを乾※[#「鹿/几」、313−6]子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。
死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾※[#「鹿/几」、313−8]子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫は額《ひたい》の上にともしびをつけて行くと、その光りを見てかの乾※[#「鹿/几」、313−10]子の寄って来ることがある。かれらは人を見ると非常に喜んで、烟草《たばこ》をくれという。烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。
「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金の蔓《つる》のある所を知っているか」
かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらを瞞《だま》すのを例としている。
「われわれが先ず上がって、それからお前を籃《かご》にのせて吊りあげてやる」
竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、瞞《だま》すのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見る融《と》けて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。
それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁に倚《よ》りかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。
それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。
海和尚、山和尚
潘《はん》なにがしは漁業に老熟しているので、常にその獲物《えもの》が多かった。ある日、同業者と共に海浜へ出て網を入れると、その重いこと平常に倍し、数人の力をあわせて纔《わず》かに引き上げることが出来た。見ると、網のなかに一尾の魚もない。ただ六、七人の小さい人間が坐っていて、漁師らをみて合掌|頂礼《ちょうらい》のさまをなした。かれらの全身は毛に蔽われてさながら猿のごとく、その頭の天辺だけは禿《は》げたようになって一本の毛も見えなかった。何か言うようでもあるが、その語音《ごいん》はもとより判らない。
とにかくに異形《いぎょう》の物であるので、漁師らも網を開いて放してやると、かれらは海の上をゆくこと数十歩にして、やがて浪の底に沈んでしまった。土人の或る者の説によると、それは海和尚《かいおしょう》と呼ぶもので、その肉を乾して食らえば一年間は飢えないそうである。
また、別に山和尚《さんおしょう》というものがある。
李姓《りせい》のなにがしという男が中州に旅行している時、その土地に大水が出たので、近所の山へ登って避難することになったが、水はいよいよ漲《みなぎ》って来たので、その人はよんどころなく更に高い山頂に逃げのぼると、そこに小さい草の家が見いだされた。それは山に住む農民が耕地を見まわりの時に寝泊まりするところで、家の内には草を敷いてある。やがて日も暮れかかるので、彼はそのあき家にはいって一夜を明かすことにした。
その夜半である。
大水をわたって来る者があるらしいので、李はそっと表をうかがうと、ひとりの真っ黒な、脚のみじかい和尚が水面を浮かんで近寄って来る。それが怪物らしいので、彼は大きい声をあげて人を呼ぶと、黒い和尚も一旦はやや退いたが、やがてまた進んで来るので、彼も今は途方にくれて、一方には人の救いを呼びつづけながら、一方にはそこにある竹杖をとって無暗に叩き立てているところへ、他の人びともあつまって来た。
大勢の人かげを見て、怪物はどこへか立ち去ってしまって、夜のあけるまで再び襲って来なかった。水が引いてから土地の人の話を聞くと、それは山和尚というもので、人が孤独でいるのを襲って、その脳を食らうのであると。
火箭
乾隆六年、嘉興《かこう》の知
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