仏事を営み、かの丹袴《たんこ》を火に焚《や》いてしまうと、その後はなんの怪しいこともなかった。

   慶忌

 張允恭《ちょういんきょう》は明《みん》の天啓《てんけい》年間の進士《しんし》(官吏登用試験の及第者)で、南陽《なんよう》の太守となっていた。
 その頃、河を浚《さら》う人夫らが岸に近いところに寝宿《ねとま》りしていると、橋の下で哭《な》くような声が毎晩きこえるので、不審に思って大勢《おおぜい》がうかがうと、それは大きい泥鼈《すっぽん》であった。こいつ怪物に相違ないというので、取り押えて鉄の釜で煮殺そうとすると、たちまちに釜のなかで人の声がきこえた。
「おれを殺すな。きっとお前たちに福を授けてやる」
 人夫らは怖ろしくなって、ますますその火を強く焚《た》いたので、やがて泥鼈は死んでしまった。試みにその腹を剖《さ》いてみると、ひとりの小さい人の形があらわれた。長さ僅かに五、六寸であるが、その顔には眉も眼も口もみな明らかにそなわっているので、彼らはますます怪しんで、それを太守の張に献上することになった。張もめずらしがって某学者に見せると、それは管子《かんし》のいわゆる涸沢《こたく》の精で、慶忌《けいき》という物であると教えられた。
(谷の移らず水の絶えざるところには、数百歳にして涸沢の精を生ずと、捜神記にも見えている)。

   洞庭の神

 梁遂《りょうすい》という人が官命を帯びて西粤《せいえつ》に使いするとき、洞庭《どうてい》を過ぎた。天気晴朗の日で、舟を呼んで渡ると、たちまちに空も水も一面に晦《くら》くなった。
 舟中の人もおどろき怪しんで見まわすと、舟を距《さ》る五、六町の水上に、一個の神人《しんじん》の姿があざやかに浮かび出た。立派な髯《ひげ》を生やして、黒い紗巾《しゃきん》をかぶって、一種異様の獣《けもの》にまたがっているのである。獣は半身を波にかくして、わずかにその頭角をあらわしているばかりであった。また一人、その状貌《じょうぼう》すこぶる怪偉なるものが、かの獣の尾を口にくわえて、あとに続いてゆくのである。
 やがて雲低く、雨降り来たると、人も獣もみな雲雨のうちに包まれて、天へ登るかのように消えてしまった。
 これは折りおりに見ることで、すなわち洞庭の神であると舟びとが説明した。

   ※[#「口+斗」、288−1]蛇

 広西《こうせい》地方には※[#「口+斗」、288−2]蛇《きょうだ》というものがある。この蛇は不思議に人の姓名を識っていて、それを呼ぶのである。呼ばれて応《こた》えると、その人は直ちに死ぬと伝えられている。
 そこで、ここらの地方の宿屋では小箱のうちに蜈蚣《むかで》をたくわえて置いて、泊まり客に注意するのである。
「夜なかにあなたの名を呼ぶ者があっても、かならず返事をしてはなりません。ただ、この箱をあけて蜈蚣を放しておやりなさい」
 その通りにすると、蜈蚣はすぐに出て行って、戸外にひそんでいるかの蛇の脳を刺し、安々と食いころして、ふたたび元の箱へ戻って来るという。
(宋人の小説にある報寃蛇《ほうえんだ》の話に似ている)。

   范祠の鳥

 長白山《ちょうはくさん》の醴泉寺《れいせんじ》は宋の名臣|范文正《はんぶんせい》公が読書の地として知られ、公の祠《ほこら》は今も仏殿の東にある。
 康煕《こうき》年間のある秋に霖雨《ながあめ》が降りつづいて、公の祠の家根《やね》からおびただしい雨漏りがしたので、そこら一面に湿《ぬ》れてしまったが、不思議に公の像はちっとも湿れていない。
 寺の僧らが怪しんでうかがうと、一羽の大きい鳥が両の翼《つばさ》を張ってその上を掩《おお》っていた。翼には火のような光りがみえた。
 雨が晴れると共に、鳥はどこへか姿を隠した。

   追写真

 宋茘裳《そうれいしょう》も国初有名の詩人である。彼は幼いときに母をうしなったので、母のおもかげを偲《しの》ぶごとに涙が流れた。
 呉門《ごもん》のなにがしという男がみずから言うには、それには術があって、死んだ人の肖像を写生することが出来る。それを追写真《ついしゃしん》といい、人の歿後数十年を経ても、ありのままの形容を写すのは容易であると説いたので、茘裳は彼に依頼することになった。
 彼は浄《きよ》い室内に壇をしつらえさせ、何かの符を自分で書いて供えた。それから三日の後、いよいよ絵具や紙や筆を取り揃え、茘裳に礼拝させて立ち去らせた。
 一室の戸は堅く閉じて決して騒がしくしてはならないと注意した。夜になると、たちまち家根瓦に物音がきこえた。
 夜半に至って、彼が絵筆を地になげうつ音がかちり[#「かちり」に傍点]ときこえた。家根瓦にも再び物音がきこえた。彼は戸をあけて茘裳を呼び入れた。
 室内には燈火が明るく、そこらには絵具が
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