散らかって、筆は地上に落ちていた。しかも紙は封じてあって、まだ啓《ひら》かれていない。早速に啓いてみると、画像はもう成就していて、その風貌はさながら生けるが如くであった。茘裳はそれを捧げてまた泣いて、その男に厚い謝礼を贈った。
「死後六十年を過ぎては、追写真も及びません」と、彼は言ったそうである。
 蘇穀言《そこくげん》の随筆にも、宋僉憲《そうけんけん》は幼にして父をうしない、その形容を識らないので、方海山人《ほうかいさんじん》に肖像をかいて貰って持ち帰ると、母はそれを見て、まことに生けるが如くであると、今更に嘆き悲しんだということが書いてある。してみると、世にはこういう理《ことわり》があると思われる。

   断腸草

 康煕庚申《こうきこうしん》の春、徽州《きしゅう》の人で姓を方《ほう》という者が、郡へ商売に出た。八人の仲間が合資で、千金の代物《しろもの》を持って行ったのである。江南へ行って、河間の南にある腰※[#「足+占」、290−8]《ようてん》の駅に宿った。
 仲間の八人と、騾馬《らば》をひく馬夫とがまず飯を食った。方は少しおくれていると、その一人が食いながら独り言をいうのである。
「断腸草《だんちょうそう》……」
 それを三度も繰り返すので、方《ほう》は怪しんだ。
「君は食い物のなかに断腸草があるのを知っているのか。それなら食ってはならないぜ」
「そうだ」と、その男は言った。
 見ると、馬夫はすでに中毒状態で仆《たお》れた。急に一同に注意して食事を中止させ、方は往来へ駈け出してそこらの人たちを呼びあつめた。医師を招いて診察を求めると、それは食い物の中毒であるといった。解毒《げどく》剤をあたえられて、一同幸いに本復したが、馬夫だけは多く食ったために生きなかった。
 方は一人の男にむかって、どうして断腸草の名を口にしたかと訊くと、彼は答えた。
「食っている時に、誰かうしろから断腸草と三度繰り返して言った者があるので、わたしもそれに連れて言っただけのことで、最初から知っていたわけではないのだ」
 断腸草を食えば、はらわたが断《き》れて死ぬということになっている。それを食い物にまぜて食わせたのは、われわれを毒殺して荷物を奪う手段に相違ないと、一行はそれを訴え出ようといきまいたのを、土地の人びとがいろいろに仲裁し、馬夫の死に対して百金を差し出すことで落着、宿の主人
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