中国怪奇小説集
剪燈新話
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)名代《みょうだい》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)妖怪|変化《へんげ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《くじか》
−−
第十二の夫人は語る。
「今晩は主人が出ましてお話をいたす筈でございましたが、よんどころない用事が出来まして、残念ながら俄かに欠席いたすことになりました。就きましては、お前が名代《みょうだい》に出て何かのお話を申し上げろということでございましたが、無学のわたくしが皆さま方の前へ出て何も申し上げるようなことはございません。唯ほんの申し訳ばかりに、どなたも御存じの『剪燈新話』のお話を少々申し上げて御免を蒙ります。
わたくしどもにはよく判《わか》りませんが、支那の小説は大体に於いて、唐《とう》と清《しん》とが一番よろしく、次が宋《そう》で、明《みん》朝の作は余り面白くないのだとか申すことでございます。殊に今晩の御趣意を承《うけたま》わりまして、主人もお話の選択によほど苦しんでいたようでございました。しかし支那の本国ではともかくも、日本では昔から『剪燈新話』がよく知られて居りまして、これは御承知の通り、明《みん》の瞿宗吉《くそうきつ》の作ということになって居ります。その作者に就いては多少の異論もあるようでございますが、ここでは普通一般の説にしたがって、やはり瞿宗吉の作といたして置きましょう。
今まで皆さんがお話しになったものとは違いまして、この『剪燈新話』は一つのお話が比較的に長うございますから、今晩はそのうちの『申陽洞記《しんようどうき》』と『牡丹燈記《ぼたんとうき》』の二種を選んで申し上げることにいたします。馬琴《ばきん》の『八犬伝』のうちに、犬飼現八《いぬかいげんぱち》が庚申山《こうしんざん》で山猫の妖怪を射る件《くだり》がありますが、それはこの『申陽洞記』をそっくり書き直したものでございます。一方の『牡丹燈記』が浅井了意《あさいりょうい》の『お伽《とぎ》ぼうこ』や、円朝《えんちょう》の『牡丹燈籠』に取り入れられているのは、どなたも能《よ》く御存じのことでございましょう。前置きは先ずこのくらいにいたしまして、すぐに本文《ほんもん》に取りかかります」
申陽洞記
隴西《ろうせい》の李徳逢《りとくほう》という男は当年二十五歳の青年で、馬に騎《の》り、弓をひくことが上手で、大胆な勇者として知られていましたが、こういう人物の癖として家業にはちっとも頓着せず、常に弓矢を取って乗りまわっているので、土地の者には爪弾《つまはじ》きされていました。
そういうわけで、身代《しんだい》もだんだんに衰えて来ましたので、元《げん》の天暦《てんれき》年間、李は自分の郷里を立ち退《の》いて、桂州へ行きました。そこには自分の父の旧い友達が監郡の役を勤めているので、李はそれを頼って行ったのですが、さて行き着いてみると、その人はもう死んでしまったというので、李も途方に暮れました。さりとて再び郷里へも帰られず、そこらをさまよい歩いた末に、この国には名ある山々が多いのを幸いに、その山々のあいだを往来して、自分が得意の弓矢をもって鳥や獣《けもの》を射るのを商売にしていました。
「自分の好きなことをして世を送っていれば、それで結構だ」
こう思って、彼は平気で毎日かけ廻っていました。すると、ここに銭《せん》という大家《たいけ》がありまして、その主人は銭翁と呼ばれ、この郡内では有名な資産家として知られていました。銭の家には今年十七のひとり娘がありまして、父の寵愛はひと通りでなく、子供のときから屋敷の奥ふかく住まわせて、親戚や近所の者にも滅多《めった》にその姿を窺わせたことがないくらいでした。その最愛の娘が雨風の暗い夜に突然ゆくえ不明になったので、さあ大変な騒ぎになりました。
よく調べてみると、門も扉も窓も元のままになっていて、外から何者かが忍び込んだらしい形跡もなく、娘だけがどこへか消えてしまったのですから、実に不思議です。勿論、早速にその筋へ訴え出るやら、神に祷《いの》るやら、四方八方をたずね廻らせるやら、手に手を尽くして詮議したのですが、遂にそのゆくえが判らないので、父の銭翁は昼夜悲嘆にくれた末に、こういうことを触れ出しました。
「もし娘のありかを尋ね出してくれた者には、わたしの身代の半分を割《さ》いてやる。又その上に娘の婿にする」
それを聞いて、誰も彼も色と慾とのふた筋から、一生懸命に心あたりを探し廻ったのですが、娘のゆくえは容易にわからず、むなしく三年の
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング